民団新聞 MINDAN
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子どものためならなんでもしよう

オリニジャンボリーを振り返る



綱引きのあと、一緒に「ピース」。
右端が金光敏氏

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ジャンボリーで出会った韓国、同胞、子どもたち
価値ある投資、次も必ず行かせたい

■大きな可能性秘める

 夏休みも締めくくりに入る8月23日から27日の4泊5日間、韓国で「2001オリニソウルジャンボリー」が開催された。私は、大阪府民族講師会の一員としてこの企画に準備段階から参加させてもらう機会を得た。行事を終え、日常生活に戻っているが、まだ「ジャンボリー」の余韻に浸っている。民団の事業に関わることは初めてであり、「失礼」を許していただくなら、さほどの期待もよせていなかった。むしろ、半信半疑のうちに関わり、お声がけをしていただいたから、失礼のないようにとだけ考える程度であった。

 だが、行事を終え、ジャンボリーを振り返り、本当に中身の濃い子ども事業≠ナあったと感じている。何よりも楽しかった≠フだ。多分参加した子どもたちや保護者たちも同じ印象を持って帰っていったのではないか。私は民団に属さない客観的な立場からこの事業に参加し感じた点を記してみたいと思う。


■ジャンボリーは英断

 行事の詳細については、本紙ですでに報道されているので省くことにする。むしろ、私が感じた点をいくつか記すことで、多分知られるところではなかった、この行事のもう一つの姿が伝わればと思う。

 ほぼ一年、関係者によると構想段階から2年の歳月をかけて、この事業は進められた。

 私の関わりは、企画委員会が結成された昨年の秋頃からであるが、すでにその前から進められていたという。新規事業であるのと規模が大きかったために、民団内部でも賛否両論あったようだが、最後はトップの判断として推進されたという。案の定、中央本部、そして地方本部、また参加団体の若手メンバーが総動員され、財政的にも大きな支出を伴ったという。

 私は、こうした行事開催に至るまでの過程を関係者から聞き、同胞社会の経済状況が厳しい中、かなりの持ち出し≠ェ伴う新規事業(詳細な財政報告がのちにされると思う)に、内部から消極意見がおこることは仕方ないのではないか。だが大きな労力、財政をかけて取り組んだ事業が、他でもない子どもたちのため≠ネらば、価値ある投資≠ナはないかと、私なりの意見を述べた時、関係者の表情が少し揺るんだのが印象的であった。

 実は、私は民団が主催する子ども行事に悪印象≠持っていた。それは強烈な記憶として残っている。

 数年前のことだが、ある地域の民団主催の子どもキャンプに指導員として参加した時のことだった。そのキャンプで、幾度となく子どもたちが怒鳴りつけられる姿を目の当りにした。「子どもは大人の言うことを聞けばいいのだ」と言わんばかりのその姿に私は憤りを感じた。極端かもしれないが、そんなキャンプなら、いらないのではないかとも思った。

 今回のジャンボリーはそうならないことを願い、少なくとも私が受け持つグループだけは、笑いの耐えない元気な5日間を送ろうと意気込んだ。が、それはものの見事に余計な心配となった。運営スタッフたちは、子どもたちの思いを受け止めようと確認し、各グループを担当するために集まったリーダーたちにも、「子どものためなら何でもする」ことを求めた。痛快であった。今回のジャンボリーを象徴するものの一つであったと思う。


■沈黙の会話

 本国の子どもたちとの交流は、深い感動を受けた。いや信じられないほどだった。スタッフやリーダーたちは、「距離を持って眺めよう」と約束したものの、心配の色を隠せなかった。「交流」と言っても言葉が通じないのである。ところが、いざ始まってみると、言葉が通じないことは彼らにとって大きな苦ではなかった。在日の子どもたちと、本国の子どもたちは、心と心で沈黙の会話を交わし、笑顔を浮かべ、手を差しのべあってプログラムに取り組んでいた。大人の助けなどいらないよ≠ニ言わんばかりに。

 在日の子どもたちと本国の子どもたちのこうした出会いが広がれば、本国社会での在日同胞に対する認識はもっと進み、真に対等な関係が生まれるのではないかと思えてならなかった。私たちが訪れた中央大学付属初等学校での交流に先立ち持たれた開会式で、引率団長を務められた鄭夢周事務副総長が感涙された。まるで、長年の夢がかなったかのように。子どもたちは、大人の考える以上に大きな可能性を秘めていた。

 本国の子どもたちとの交流において一番いきいきしていたのは、やはり本国での居住経験を持つ子どもたちだったが、それ以上に楽しんでいたように見えたのが、民族学校の子どもたちだった。多くはなかったが、朝鮮学校に通う子どもたちは、たどたどしいウリマルを使いながらも、しっかりと自分の言葉で交流をしていた。やはり民族学校は私たちの財産なのだと、ジャンボリーに参加した先でも実感することができた。


■問題点も少し

 もちろん、ジャンボリーのすべてがよかったわけではない。やはり私が、いやともに参加した民族講師会のメンバーがなぜ?と首を傾げたのが「戦争記念館」の訪問であった。

 大砲があり、戦闘機があり、「我軍」が「敵軍」を撃退する人形レプリカがある。私の目には、戦争美化としか映らなかった。戦争に、一方的な被害者も加害者もない。同族どうしが殺し合い、片方の同族を侵略者とみなす施設に子どもたちを連れていきたかった意味は何だったのだろうか。

 もう一つ触れるならば、私は、国民儀礼がどうしてもできない。韓国を私は愛しているし、このジャンボリー中にも多くの本国の人々から親切にされ、なおさらその思いは強まった。だが、国家に忠誠を尽くすことが形式的であっても私にはできない。今回参加した子どもたちの中には、韓国と日本のダブルの子どもたちもいたし、帰化によって日本国籍に変えた子どもたちもいた。また、朝鮮籍の子どもたちもいて、参加した325名の子どもたちは、325通りの多様な背景を持っている。国民儀礼を紹介することは悪くない。

 ただ「したくなければしなくていいよ」という声があれば、私のようなアウトロー≠ノとってもより親切であったと思う。


■次への期待

 ジャンボリーは、とにかく楽しかった。私が子どもなら、次も必ず行きたいと親にねだるだろうし、私の子どもにも必ず行かせたいと思う。大きな労力をさき、お金をたくさん使い、民団総動員で取り組んだ行事が、他でもない子ども事業≠ナあったことに、私は一番大きな喜びを感じる。この汗は大切にしてほしい。この子どもたちがジャンボリーを通じて培った韓国との楽しい出会い、同胞の仲間たちの出会いは、10年後、20年後に必ず実を結ぶ。その時に私は、第1回目のスタッフだったのさ≠ニ自慢げに話すつもりだ。子どもたちと韓国の空の下でまた会いたい。

(金光敏・民族教育促進協議会事務局長代行)

(2001.10.03 民団新聞)



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