民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
特集・民団創団55周年



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在日同胞社会の基礎切りひらく
法的地位確立・民生安定・祖国への貢献など

 在日本大韓民国民団(韓国民団)は、1946年10月3日、東京・日比谷公会堂で「在日本朝鮮居留民団」として創団され、今年、創立55周年を迎える。民団の半世紀は、在日同胞の法的地位確立と民生安定、文化向上、国際親善と祖国の発展と平和統一の実現を方針に掲げ、数多くの運動・事業を総力で展開し、実績をあげてきた。その結果、在日同胞と祖国を取り巻く情勢は、創団時に比べて大きく変化し、民団の構成員も在日同胞70万人のうち、50万人を擁する組織体として成長した。


地方参政権実現へ総力…新銀行設立へけん引役
同胞子弟への民族教育にも取組み


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組織闘争期

 1945年8月15日、祖国解放の直後、日本には230万人もの同胞がいた。強制連行、徴用などによって自らの意思にかかわらず炭鉱をはじめとする過酷な労働を強いられた同胞達は、解放後200万人近くが帰国し、46年3月には65万人まで減少した。

 一方、日本に残った同胞は全国各地に自治団体を組織し、帰国事業などを推し進めた。これらの組織を糾合して45年10月に結成されたのが「在日朝鮮人連盟(朝連)」だった。だが、朝連は一部指導者によってたちまち左傾化、共産化され、「思想的に傾くべきでない」と訴える青年らが同年11月16日、東京・新橋に3000人を集め、「朝鮮建国促進青年同盟(建青)」を結成した。

 建青と朴烈氏が委員長を務める「新朝鮮建設同盟(建設同盟)」は、自由民主主義に則った大衆組織を作ろうと20団体余を結集し、46年10月3日、日比谷公会堂で「在日本朝鮮人居留民団」を結成した。朴烈氏を初代団長に選出し、「わが同胞が帰国する日まで」と祖国への帰国を前提とし、「一致団結してわれわれの義務を忠実に行う」という宣言書を採択した。その上で、在留同胞の民生安定在留同胞の教養向上国際親善をそれぞれ期すると、目的を明らかにした。

 48年8月15日、韓国政府が樹立されると民団は同年10月、在日同胞の公認団体として正式に韓国政府から認められた。


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自主活動期

 59年に日本と北韓の両赤十字社で合意した在日同胞の北送事業では、朝鮮総連(総連)などが宣伝する「北は地上の楽園」説は虚偽であり「北韓の労働不足を補う策動だ」として、新潟に向かう輸送列車の阻止座り込みなど全組織をあげて阻止運動を展開した。

 また、65年の「韓日条約」締結時には、在日同胞の「法的地位」について韓国政府に働きかけ、子々孫々にわたる日本での「永住権」などを日本当局に要求した。結果的に在日同胞の「法的地位」は、この時点では「協定永住2代目」までに限定されるなど不十分なものに終わった。しかし、日本との国交回復や祖国の復興という大局的見地から韓日条約を支持した。

 64年に開催されたアジア初の東京五輪では、「在日韓国人後援会」を構成し、韓国選手団の受け入れや競技応援など、物心両面で支援した。


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前進期

 66年から71年まで韓日協定に伴う「永住権申請運動」が、全組織をあげて推進され、総連の妨害にもかかわらず有資格者56万人中36万5千人が申請した。

 72年の歴史的な「7・4共同声明」は、祖国の平和統一に向けて、その基本精神である「自主・平和・民族の大同団結」を積極的に支持した。

 70年代に本国で始まった「セマウル運動」には、韓国150カ所の農村との姉妹血縁に努力し、農村の発展に大きく寄与した。73年には民団の「セマウム運動」が提唱されたのを受け、在日同胞青年の「セマウムシムキ運動」へと発展する一方、「セ民団運動」として組織強化運動に結びつけた。

 75年からは「朝鮮籍」のまま臨時パスポートで韓国の故郷を訪問するという総連系同胞の「母国訪問団事業」を実現させた。これまで約5万人におよぶ総連系同胞が韓国を訪問し、肉親との再会を果たした。人道主義を形にした事業として、内外から大きな評価を受け、民団組織の拡大化の契機となった。


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跳躍期

 韓日協定で積み残された在日同胞のさまざまな権益について自ら解決するために「権益擁護運動」を全国的に展開した。公営住宅の入居や国民年金への加入、金融差別の撤廃、出入国管理法(入管法)の一部改正、国公立大学教員採用問題、就学案内など200項目以上の行政上の国籍要件を撤廃させてきた。

 83年の「外国人登録法指紋押捺撤廃100万人署名運動」では、181万7000人を超える署名を集める一方、押捺留保運動で実力行使にも訴えた。


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拡充期

 88年のソウルオリンピックの開催を期に結成された在日韓国人後援会は、100億円に上る寄金を集め、大成功の一翼を担った。

 65年の韓日協定で先送りされていた協定永住2代目以降の「法的地位」問題などを解決する「91年問題」は、韓国政府との共同歩調によって子々孫々までの「永住権」を確保した。さらに外国人登録法の「指紋押捺制度の廃止」、「再入国許可期間の延長」などを含む法改正を促した。

 21世紀を見すえた新しい在日同胞社会を構築するために、「生活権拡充運動」「民族社会教育運動」の展開とともに、94年に団体名称から「居留」をはずし、日本に永住する地域住民としての権利である「地方参政権獲得運動」を立ち上げ、今日まで積極的に運動を推進してきた。

 95年の阪神大震災では「共生・共栄」の精神から、日本のどの政府機関よりも早く被災者の救援活動に乗り出し、総連系同胞、日本人被災者にも等しく救援物資を配布するなど、社会貢献に尽くした。


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飛躍期

 97年6月から「参政権獲得・同胞和合120日間運動」を展開し、全国7万世帯の訪問と20万人以上の署名獲得で、参政権を要望する同胞のコンセンサスをより強固なものにした。

 99年5月には2002年の韓日共催サッカーワールドカップを成功させようと「在日韓国人後援会」が正式に発足し、5億円募金や両国開催都市への支援などを決めた。

 2000年6月13日から平壌で開かれた歴史的な南北首脳会談を受けて在日同胞社会でも各地で相次いで民団と総連の交流が開かれた。双方の中央本部間でも交流を持とうと話し合われたが、総連中央から実質的な回答が無い状況にある。

 地方参政権問題は、すでに論議が出尽くしており、早急に国会で結論が出されるのではないかと見られている。2001年6月には全国から民団幹部・団員4000人が東京に集まり、大々的な国会陳情と示威行進を展開、日本市民に大きくアピールした。

 昨年からは民族金融機関を守るための新銀行設立にも積極的な役割を果たし、また同胞子弟の民族教育のために全国のオリニらを集めてオリニ・ソウルジャンボリーも開催し、保護者からも大きな評価を受けた。

(2001.10.03 民団新聞)



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