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兵庫・浜坂町の満願寺

朝鮮通信使関連の扁額
尹達世



満願寺の本堂の山号「霊寶山」と彫られた扁額

10次使節団・玄文亀の書
日本海側で初ケース

 兵庫県浜坂町は日本海に面した小さな町で、夏は海水浴、冬はカニ料理三昧が楽しめるといったほどのところ、というのが私の記憶であった。ところが、朝鮮通信使に関わる扁額があるという報せには思わず耳を疑った。

 江戸時代、朝鮮と日本の友好の象徴だった通信使の訪日は、釜山を出発し、海峡を渡って下関に至り、瀬戸内海を通って、大坂で煌びやかな川船に乗り換え、淀からは陸路で江戸まで上るという行路だった。

 その道中において日本の知識人たちは、文化上国とみなされた朝鮮からの使節に面談を請い、書を揮毫してもらったりした。それが扁額に写し取られ、現在も各地に残されている。

 通信使一行は、その200年の間、12回来日し、そのうち10回は江戸まで往来したが、いつも決まったコースであり、日本海側には一度も立寄ったことはなかった。それなのにどういうわけで瀬戸内海から遠く離れた日本海沿いの町の寺に通信使の扁額が掲げられているのかと、驚いたのだった。

 ともかくもこの扁額の存在を教えてくれた地元中学校の教頭である岡部良一さん(54)に案内してもらい、その寺を訪ねることにした。

 その寺は、JR山陰本線浜坂駅からほど近い臨済宗南禅寺派の満願寺という寺であった。緑豊かな寺の山門を潜ると正面に行基が開いたと伝える観音堂があり、その右手に大きな本堂がある。

 本堂を仰ぎ見ると、当寺の山号である「霊寶山」という金色の太筆が彫られた扁額が掲げられていた。左には「朝鮮国玄文亀」とのサインと刻印もある。大きさは縦45a横97aの欅(けやき)板というかなり大きな扁額である。古い扁額であるはずなのに金色の文字が光り輝き、新しく見えるのはなぜなのかと寺田勝道住職(64)に尋ねると、「4年前に美装し直したばかりだから」とのことだった。

 この書を揮毫した玄文亀という人物は第10次の朝鮮通信使、すなわち洪啓禧を正使として延享5(1748)年、幕府第9代将軍・徳川家重襲職を祝賀するために来日した一行の写字官である。

 第10次通信使といえば、その日本訪問を記録するものとして三使の一人、従事官・曹命采(号蘭谷)の『奉使日本時聞見録』や、正使・洪啓禧の二男、洪景海の『随使日録』があり、それらに写字官の金天秀と玄文亀の2人の名前が登場する。広島県福山市鞆浦の福禅寺に掲げられている「對潮楼」の扁額はあまりにも有名だが、これは洪景海が揮毫したものだ。

 また、京都大学付属図書館所蔵の『朝鮮人来朝物語』には、一行の料理人が、宿舎である大坂西本願寺津村別院で猪や鶏などを料理している珍しい光景が描かれているが、これも第10次のときのものだった。

 しかし、日本海沿いの寺に朝鮮通信使の書(扁額)があるというのは驚きで、私の知る限り、全国でも初めてのケースではないかと思われる。また玄文亀の書が残っているのもまた全国唯一ではないだろうか。

 満願寺の扁額が第10次の写字官・玄文亀の書だということは確認できたが、なぜ瀬戸内から遠く離れた寺にあるのかはまだ疑問であった。

 ところが岡部さんは、「実は扁額の裏面に、その経緯が書かれてあったのです」と教えてくれた。寺の改修のため扁額を本堂から取り外したとき、彼はその裏に書かれた由緒書を書き写していたのだった。その写しを見せてもらうと、
「泉州岸和田城主
 岡部美濃守殿挙達
 于時宝暦十二壬午歳
正月吉日
 行年六十四義白彫刻焉
 地板 下田弁助
 縁木 井上久治郎
 寄付 弐貫文 勘十郎
 箔金 鍛冶五右衛門
 折釘 同右兵衛」
と、書かれてあった。 (フリーライター)

(2001.10.17 民団新聞)



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