| 急な坂道を頂上 めがけて登る観光客 |
金剛山観光随行期・北の大地へ<上>
◆あっけない「審査」、我を忘れる自然美広がる
金剛山行きが決まった時、正直言って期待よりも不安感のほうが強かった。北韓自体の閉鎖性やかの国の指導者に対する抜きがたい不信感を公言してきた者としては、北当局がすんなり受け入れてくれるかどうか心配したからだ。
程度の差はあれ、ほかの民団幹部もそういう思いだったと思う。北への道のりはそれくらい遠かったのである。
束草港を出発した雪峰号は、少しも揺れを感じさせずに北へと向かう。快晴の空と視界のすべてを包む水平線、心地いい風をデッキで受ける。ゴーストップに興じるアジョシがいる。ずっと行く手を目で追う人がいる。
様々な思いを乗せながら、約4時間後には北の大地、ごつごつとした岩肌が見えてきた。
伴走船が夕暮れの港へと誘導する頃、写真撮影禁止のアナウンスが繰り返される。持ち込み禁止品目の携帯電話が再度韓国側ガイドからチェックされる。いよいよ下船だ。緊張が走る。
■ドア越しの東西
船を降りた一行を迎えたのは、海上ホテル前の大型スピーカーから延々と流れる「パンガスムニダ」の歌だった。埠頭に張り付く監視員を横目で見やり、「審査」の建物へ順序よく入っていく。
そこにはテレビなどで見たことのある、不釣り合いなほど大きな帽子をかぶった北の役人がいた。北に来たんだという実感がこみ上げ、表情が硬くなった。
審査は思ったよりもあっけなく終わった。かばんの中をひっくり返されるのかと思っていたが、審査官の目が「民団新聞」という肩書きと私のヒゲにじっと止まったくらいだろうか。
ホテルに入ると、フィリピン人3人のバンドがアメリカンポップスで歓迎してくれた。ドア一枚が「東西」陣営を分ける現実を見た気がした。外部との連絡が一切できない初めての体験の始まりだった。
紅葉の季節を終えた晩秋の金剛山は汗ばむほどの陽気だった。色づいた銀杏の葉を一枚拾った。
■晩秋の金剛山
ガサガサと音のする方向に目をこらすと、リスがいた。5000年前の昔から同じ姿をしていたのか、金剛山は時間がとまったようだった。絵そのものと言っていい。渓谷に流れる滝。エメラルドに染まった水。
しかし、雄大な九竜淵コースの嶺嶺に心酔するのもつかの間、目に飛び込んで来たのは、故金日成主席を讃える朱書きのスローガンだった。
金日成将軍の歌もあった。北送同胞がこの歌に押されるように、新潟港を離れたことを苦く思い出した。事前に知っていたこととはいえ、それらを前にすると絶句するしかなかった。
気を取り直して頂上へと足を進める。傾斜はかなりきつい。日頃の運動不足がたたり、鉄の階段をつかんで見上げるたびに何度も挫折しそうになる。先発グループの本国の人たちが戻って来ながら、「あと少しあと少し」と声をかけてくれる。
やっとの思いで頂上へたどりつく。そこからの絶景は、「百聞は一見にしかず」の世界だった。天女でなくても我を忘れる自然の美がそこに溢れていた。
(「哲恩・民団中央本部宣伝局長)
(2001.12.05 民団新聞)
|