民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
李瑜煥(文筆家)
薩摩焼き400年、沈壽官家の足跡をたどる<上>

南原から祖先40数人
三隻に分乗し串木野に上陸



「慶長3年冬、吾らが開祖
この地に上陸す」の碑

 一五九七(慶長二)年、朝日講話会談が決裂すると、再び出兵してきた日本軍にとって、玄界灘の釜山港と九州の名護屋本営との連絡線確保は欠かせない第一の課題であった。そのためには、巨済島の西にある閑山島の「慶尚右水営」の占領が必要となった。

 次いで、ソウルへの進軍には全羅道の「南原城」と鳴洋海峡にある「全羅左水営」の制圧が日本軍の戦略であった。朝鮮軍が慶尚右水営で敗戦したのは、絶代の名将・李舜臣統制使を罷免し、元均に代わらせたためであった。朝廷ではこれを悔い、再び李舜臣将軍を起用しながら陸戦の将に命じた。

 この時、将軍は建白書を上程して「壬辰の開戦以来、敵軍に国土を侵略されながら国を守ったのは、一度も東西の両海を突かれることがなかったからである。今、臣の戦船で残るは十二隻のみの微弱ながら、敵の四百余艘と三万の大軍といえども、一艘の敵船といえども西海に出さない」と海戦を主張した。

 そこで李舜臣将軍は、全羅道花源半島にある「全羅水営」を基地に、珍島との間の鳴洋海峡で民船百余艘を擬戦隊に仕立て臨んだ。海流と風向を巧に利用した鳴洋海戦の李将軍の大勝は、世界海戦史にも輝いている。このおかげで、日本軍は釜山近くの一角で、背水の陣を敷かねばならないほど追いつめられた。

祖先が最初に上陸した串木野の島平港


南原城での日本軍

 日本軍は当初、南原城と全羅水営を車の両輪に例え、この両方を制圧してソウルの漢江へ向かう道を確保するという戦略であった。

 南原城を包囲した日本軍は、浮田秀家、毛利秀元をはじめ島津義弘、蜂須賀家政、加藤嘉明らの部将旗下の三万余であった。この中、美山(みやま)の「薩摩焼四百年祭」と深い旧縁を持つ島津義弘の軍勢は一万余で、全軍の三分の一ほどの大軍であった。

 南原城の守備側の主力軍は、明将・楊元が率いる三千の騎兵であった。大包囲陣を敷く日本軍を見ただけで戦意を喪失し、逃散の方途探しに懸命になった。日本軍から城を守ったのは、李元翼、李福南、権慓らが率いる三千余の朝鮮兵で、戦闘慣れした十倍の日本軍を城壁に近づけないように銃撃戦をとった。

 日本軍が場内に突入できたのは、暗夜に堀を埋め、草木を城壁の高さに積み上げる作戦に成功したからであった。

 記録では「日本軍があげた首級三千余、捕虜数十人」とあるが、今日の南原にある「萬人義塚」、鳴洋海峡で傷んだ薩摩のボロ船三隻に分乗して連行された陶工の数だけで八十余人とあるところから、無辜(むこ)の民の犠牲は計り知れないものがあったようだ。

 美山の陶工、十四代・沈壽官の祖先ら四十数人は、難破船同様に串木野に漂着した。

(1998.9.30 民団新聞)



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