民団新聞 MINDAN
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金大統領、就任までの軌跡

民主化への里程標を確立
真の国民政治めざす



 昨年十二月の大統領選挙で選ばれ、今年二月に第十五代大統領に就任した金大中大統領。政治的にも様々な紆余曲折を経てきたが、金大統領の足跡をたどってみた。


木浦商業高等学校時代の
金大統領

 金大統領は一九二五年、全羅南道の海岸都市、木浦市南西に浮かぶ島、荷衣島で日本人地主の下で中流の小作人の次男として生まれた。日帝の情け容赦ない土地収奪などを見て抵抗の念を抱き、日帝植民地を批判する随筆を書いた。その結果、学校の級長を辞めさせられることになった。

 また、徴兵を避けるために徴兵猶予の特権が与えられていた海運会社に勤務。解放の後、海運会社は繁昌し、若い企業家として成功した。

 政治の道を歩むようになったのは、漸進的に独裁的傾向に走った当時の李承晩政権のためであった。

 六九年、朴正煕大統領の三選を実現させるための憲法改正を企図した政府の計画を阻止しようと、ソウルの奨忠公園で開かれた野党による大規模国民集会で意見を述べる一人にも選ばれた。

 しかし、政治的活動の始まりは非常に不運であった。五四年の民議員選挙で落選して以来、五八年、五九年、六〇年と四回の選挙で一回は登録が取り消され、三回落選という結果になった。そして六一年五月十四日、補欠選挙でついに国会議員に当選した。

 三日後の五月十六日、朴正煕少将の率いる革命軍がクーデターを起こし、国会は解散させられ、かろうじて得た国会議員の議席も無効となってしまった。そして、朴正煕軍事革命委員会議長と尹フ善候補による大統領選で朴大統領が当選した一カ月後の国会議員選挙で当選した。

 国会でも、財政、建設、外交、労働、国防、歳入など重要な常任委員会で活発な活動を繰り広げながら頭角を現していった。

1971年第7大統領選挙に出馬し、
僅差で朴大統領に敗れた

 六〇年代末には朴政権に対抗する政治勢力となっていた。六九年、野党の奨忠公園での歴史的大集会の後、反民主的傾向に走る政府に見切りを付けた野党陣営では、政権の長期化を阻止して民主主義を回復させるために新鮮な若者の出現を期待していた。そして七一年の第七代大統領選挙に出馬、徹底的な反民主的選挙であったにもかかわらず百万票を切る票差で朴大統領に迫りながらも敗れた。

 七二年十月、朴大統領が終身大統領に就くことを保証する憲法改正案が「維新憲法」という名称で公布された。その翌年の八月、政府によって東京のホテルからソウルへ拉致された。国内外の政治的同志たちの干渉と激しい抗議が起こったため、一週間後に釈放されるに至った。

 七〇年代に入って、相次ぐ投獄、自宅軟禁、外国への亡命など政府の弾圧が続いた。そのような状況の中で、歴史、哲学、経済、文学、詩学に関する数多くの本をむさぼり読んだ。独力で英語の勉学に励んだ結果、韓国の知識人と政治家の間ではまれに、英語を自由自在に操る実力を備えている。鋭い洞察力、判断力、英知などは独房にいる間の読書と瞑想を通じて培われたといわれる。

「国民の政府」を訴える金大統領

 四五年の解放以来、生涯を通じて五度の死の危機に直面している。最初は韓国動乱中の共産軍占領下であり、続く三度は、拉致事件も含めて朴正煕政権のもとであった。そして五度目は全斗煥大統領の軍事政権による弾圧を受けた時であった。

 この間、五十五回に及ぶ隔離された自宅軟禁(百八十三日)を耐え忍ばねばならず、そして六年間にわたる監房生活、十六年間の政治活動禁止、二度の外国への亡命などを経験している。


【略歴】

 1925年・全羅道荷衣島に生まれる。43年木浦商業学校卒。海運会社勤務を経て45〜55年弘国海運株式会社社長に就任。50〜53年、木浦日報社長、57年から第5代、第6代、第7代、第8代、第13代、第14代国会議員。平和民主党、新民党、民主党、新政治国民会議総裁を歴任。98年2月、第15代大統領に就任。


【主な学歴】

 慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。ハーバード大学招請研究員。ケンブリッジ大学招請研究員。モスクワ国立外交大学院政治学博士。米エリモー大学、カトリック大学名誉法学博士。オーストラリア・シドニー国立大学名誉法学博士。中国南開大学社会科学研究院名誉教授。モスクワ国立大学名誉教授。


【主な著書】

『大衆参与経済論』ハーバード大学出版、『獄中通信』米UCLA出版、『金大中の三段階統一論』『金大中全集』など英・韓・日・中・露語版で十余種。

(1998.10.7 民団新聞)



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