民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
李瑜煥(文筆家)
薩摩焼き400年、沈壽官家の足跡をたどる<下>

玉山宮 〜神話祖神・檀君祭る
定着64年後に陶工ら建立



檀君が祭られている玉山宮

 「韓国の神話上の祖神・檀君を祭ってある社(やしろ)は、私の知る限りない」といえば、十四代・沈壽官氏が「ソウルにあるよ」と答えた。

 韓国で歴史上実在した人物を神として祭っている社は、忠清道に一カ所しかない。三国時代の統一英雄・金ユ信将軍が唯一の例外で、それもシャーマニズム観からのことだ。

 日帝の植民地時代、日本は韓国人に神社参拝を強制していたが、心を込めて参拝した韓国人はいなかったに違いない。理由は神観念が文化的に違うからだ。日本の日光の東照宮に祭っている徳川家康を、仏教の如来格にして「東照権現」とあがめるのを、韓国人は理解できない。

 私が日本で心から参拝する気持ちになったのは美山の「玉山宮」だけである。十四代・沈氏によると、一五九八年に苗代川(現美山)陶工四十数人が上陸し、同地に定着してから六十四年後の一六一七年に、北北西の方向から火の玉が飛来して、一段高い丘の上、つまり今の玉山宮に止まった。陶工たちは祖神檀君の飛来に違いないと信じて神社を建てて祭ったのが今日の玉山宮だとのことである。

 辛苦を重ねた陶工たちの心境から見れば当然の判断で、さぞ希望に輝いて祭祀を行ったに違いない。

 十四代・沈壽官氏の子息が小学校四年の頃であった。名前は一輝(かずてる)というが、「君の祖先の墓はどこだ」と聞いて案内してもらった。

 韓国人はよほどのことがない限り、他人の墓に礼拝をしない。

 「一輝君、韓国式に墓参するから見ていなさい」と私は、約四百年近い祖先の兄弟たちが、この南海の異国の地に連行されて、さぞご苦労を重ねたでありましょうという慰霊の気持ちで墓参までした。


玉山宮の第二鳥居

 ここで、十五代・沈壽官を襲名するはずの一輝氏を紹介してみる。

 氏は八四年に早稲田大学卒業。八五年に京都市立工業試験場修了した後、八六年には京都府立陶工職業試験場も修了した。八七年にはイタリア国立美術陶芸学校ファエンツァ校専攻科に入学し、翌年には同校を首席生として永久保存される作品を残して卒業した。

 奇しくも、道路向かいの美術館に名工の誉れ高い十二代沈壽官作の香炉があったという。

 その後、韓国京畿道利川にある金一萬陶器工場でタタキ技法を約一年にわたって修得している。名工の十二代沈壽官氏が二メートルにおよぶ巨大な名品を作陶したのも、韓国のタタキ技法によるものだという。

 今度の取材旅行で、美山近くの湯之元の宿でバスを待っている間、女将さんと話し合う時間があった。

 十四代より一輝氏の十五代に、より以上の期待が持たれるのではと言うと、女将は「韓国から来た新聞記者の金さんという方も同じことを言ってましたよ」という。

 沈壽官は四百年もの間、代を次ぎながら途切れることなく作陶に生きてきた。そしてこれからも…。この悠久な時間には、ただ圧倒されるしかない。

(1998.10.14 民団新聞)



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