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見えない在日、見える在日



 先日、在日韓国人三世を主人公にしたテレビドラマが放映された。大阪に日本一の焼肉店をオープンしようと、日本人の友人と韓国に出かけるストーリーに、国籍や日本人との友情、結婚など、在日同胞の日常の葛藤をからませていた。

 隠し続けてきた韓国籍を、主人公が初めて友人や恋人の前で告白しようとするシーンでは、自分の過去が重なって心臓が高鳴った。同胞もいたことだろう。

 出自を明かさなかったことを詫びる主人公に、以前から事実を知っていた恋人は、「隠し続けられることが辛かった」と指摘した。日本人の仮面をかぶり、日本人以上に日本人になろうとする同胞の涙ぐましい努力は、「頭隠して尻隠さず」の徒労に終わることをドラマは示唆したように思う。

 今も九割近くの同胞が、植民地時代の遺物、通称名で生活している。通名と言われているために、本質を見失いがちだが、そもそも「創氏改名」に端を発するその名前は、韓国人の民族性を抹殺するための同化政策の強力な武器であった。

 戦後も半世紀が過ぎたというのに、宗主国日本がかつて強いた偽名を名乗る状況は、何を意味するのだろうか。名前は人格の基本であるのに、本名を名乗るという、人間としてごく当たり前のことが、なぜこんなにも辛い作業になるのだろうか。

 在日同胞の葛藤は、名前が二つあることから始まると言っても過言ではない。日本名を名乗りながらも、実は日本人ではないという宣告は、同質化を要求されるこの排他的な土壌では、混乱しかもたらさない。「日本人でないことが発覚したらどうしよう」と、幼い頃に宿った頭痛の種は、多くの場合、人格形成に大きな影を落とす。不安な心理は日本人との対等な関係ではなく、劣等感を強く意識させる。


命も一つ、名前も一つ

 日本社会の差別を回避するために便法として使われてきた一世の時代の日本名は、日本生まれの二世以降の世代には、結果として民族回避の象徴として機能してきた。差別は回避するものではなく、解消するものであるにもかかわらず、日本名という隠れ蓑が正常な思考を停止させる。差別があるから名乗れないのか。名乗らないから差別が温存されてきたのか。指弾されるべきは、この悪循環を放置し、ボタンの掛け違いを正してこなかったことにある。

 仮に、人権宣言五十周年を契機に、日本社会で一切の差別を許さない、在日同胞の本名使用を誰も妨げないと、日本の国会が決議したら、同胞の側は即それに呼応するだろうか。問題は日本社会の側にだけあるのではない。本紙の購読中止を求める電話の主は、圧倒的に日本名を名乗るか、帰化をしたから必要ないというものが多い。

 命は一つ、人生が一度であるように、本来、親が子に与える名前は一つのはずだ。本名と偽名を使い分ける民族は、世界広しと言えども在日同胞だけで、使い慣れた日本名を本名だと錯覚するケースもある。「本名通学の私の娘をいじめていた子どもの母親が謝罪に来た。実は、いじめっ子も在日同胞だったのだが、親がそのことを子どもに伝えていなかった」という話を聞いた。日本名が引き起こす悲劇に、「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉が浮かんだ。

 在日同胞が日本名を使い続ける限り、多くの日本人には在日同胞のありのままの姿が見えない。金大中大統領が日本の国会で地位向上を訴えても、透明人間には関心の示しようがない。在日同胞すべてが本名を名乗ったら、日本社会はその存在との共生を本気で取り組まざるをえなくなる。

(1998.12.16 民団新聞)



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