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民族学級・苦闘の10年<上>

大阪・北巽小学校



■圧倒的に高い本名使用率

 舞台に並んだ北巽小学校民族学級卒業生の間をマイクが回っていった。真っ先に本名を名乗り、「誓いの言葉」を述べていく後輩の姿を、玄弘宗さん(44)=北巽小民族保護者会初代会長=はまぶしそうに追った。胸の中では、本名を名乗れなかった小学生時代の「暗い思い出」がよみがえっていた。

 玄さんも北巽小出身。しかし、玄さんは、小学生時代、あたりまえに本名を名乗っていた同級生は一人しか覚えていないという。いま、後輩たちが民族教育の場を保障され、民族服を誇らしげに着ているのを見て玄さんは、民族学級が在日同胞子弟のアイデンティティ確立に大きな役割を果たしていることを身をもって実感していた。


■「壁」崩しながら前進

 大阪市内の公立小学校に通う在日同胞子弟の本名使用率は現在、一三・四%でしかない。だが、民族学級設置校に限れば二三%と約二倍近くに跳ね上がっている。逆に民族学級や民族クラブの未設置校(二百五十六校)では八・二%と極端に低い。

 北巽小民族学級は三日、十回目の卒業式を迎えた。ここまでの道程は決して平坦ではなかった。

 同民族学級の前身は自主運営の民族クラブ「トラジの会」だった。自主運営のため、民族講師への謝礼は同胞保護者の負担でまかなった。約百五十世帯を一軒ずつ回った同校OBの李京愛さん=現在、同胞保護者連絡会会長=は「会費の徴収にいくのが嫌でたまらなかった」と当時を振り返った。年間二千円とはいえ、誰もが気持ち良く払ってくれたわけではないことは容易に想像がつく。

 せっかく集めた会費も、民族講師に謝礼として渡せるのは交通費程度でしかなかった。民族講師に対する公的保障を求めての市教委との交渉は、「コンクリートみたいな壁」(玄・初代民族保護者会会長)を突き崩すに等しかったという。大阪府教育委員会が非常勤の民族講師を措置し、正式に民族学級として発足するまでには四年がかかった。

 市教委との粘り強い交渉を支えてきたのは、保護者の強い意志と、支援してくれた日本人教員の熱意があったからこそ。ただし、それだけではないと玄さん。「民団や民促協のバックがあったからこそできた。民族サイドが声を上げなかったら、絶対成らなかっただろう」と語気を強めた。

 民族保護者会の現会長を務める金初美さん(38)は在日三世。金さんは民族学級が十周年を迎え、「学校に根付いた」ことを何よりも喜んでいる。「維持していくためにはより一層の努力が欠かせない。一人しかいない常勤講師の増員、さらに週一回来ていいただいている非常勤講師の常勤化などもっともっと求めたいものがたくさんある」と話している。

 帰りがけ民族学級が開設されている教室をのぞいて見た。民族楽器が所狭しと並び、民族衣裳が雑然と置かれていた。

 民族講師として府教委から措置されている李ミンギさん(34)は「学ぶ場も準備する場もゴチャゴチャ。いまどき一クラス五十人で教えているところはない。三十人編成にしようとしたら、三百五十人として十一人の民族講師が要る。ワイワイやるのはいいが、ワイワイやるだけの環境を整えないとだめ」と述べた。

(1999.03.10 民団新聞)



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