民団新聞 MINDAN
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「居住権かけた生存の闘い」

京都・ウトロは今<上>



土地を守る戦いが続くウトロ地区

■裁判までの経過
 提訴から10年、正念場迎える

 ウトロという言葉を聞いたことがあるだろうか。ウトロとは太平洋戦争中に京都飛行場建設工事にかり出されていた約千三百人の同胞の飯場跡の地名で、旧名の宇土口が誤ってウトロに変わり、今日にいたったという。現在の京都府宇治市伊勢田町ウトロ五十一番地を指す。日本の敗戦後もこの地域で生活してきた約八十世帯、三百八十人の同胞に、一九八九年二月、不動産業者が立ち退きを求めて提訴するという事態が起きた。五陣に分かれた京都地裁の裁判は、今年一月三十一日までにすべて住民側六十九人が敗訴し、四陣に組み替えて闘ってきた大阪高裁でもすでに三つが敗訴となった。

 「ウトロの地で生きたい」と願う同胞は最高裁まで争う覚悟だが、在日同胞の居場所をかけた生存の闘いは、提訴から丸十年が過ぎた今、正念場を迎えている。

   ◆◇◆◇◆◇

 日本の敗戦に伴って京都飛行場建設工事が中止されると、同胞は何ら補償のないまま全員が職を失い、飯場のあったウトロに取り残された。

 戦後、同胞住民は就職斡旋などをはじめ、生活保護を宇治市役所に掛け合ってきたが、上水道もなく、火事が起きても消し止める消火栓もないという劣悪な環境と土地問題は長い間、手つかずだった。

 八六年六月、「ウトロに水道施設を要望する市民の会」が発足し、八七年に土地所有者の日産車体(京都飛行場の土地所有権登記者、日本国際航空工業の後身)も施設同意書を市に提出。八八年四月にようやく水道の蛇口から水が出るようになり、道路も拡幅された。

 ところが、同胞住民の喜びもつかの間、その裏では別の問題が同時進行していた。ウトロの地で平穏に暮らしていた同胞の前に、同年二月、不動産業者が土地の下見に来たのである。不安に襲われた住民が尋ねると「土地が売りに出ている」とのことだった。

 調べて見ると、住民が知らないうちに土地の所有権が日産車体から不動産業者の西日本殖産に移っていた。「晴天の霹靂(へきれき)」とはこのことだ。

 「行政や日産車体との窓口役だった住民Hと日産車体の間で転売されていた」と振り返るのは、現在町内会の副会長を務める厳明夫さん(45)だ。

 その間、日産車体からHを通して住民に提示されていた土地の売却額六億四千万円は、数回開いた住民集会でまとまらず決裂。日産車体は次にH個人に働きかけ、Hは八七年三月に三億円で買い取る契約を結んでいた。さらにHは同年五月、自らが役員を務める西日本殖産に四億四千五百万円で転売していく。「そのことさえも住民は知らされなかった」と厳さんは続ける。

 Hを囲んだ数回の住民集会でHは、「住民のみんなに売るために買った」の一点張りのあげく、ウトロから姿をくらました。その後、八八年十二月、西日本殖産から「不法占拠」だとして住民あてに立ち退き通告が届く。

 住民が要求に応じないと知った会社は、翌八十九年二月に立ち退き訴訟を京都地裁に起こした。

 以上がウトロ問題の起こりと提訴までの概要である。祖父や父の時代から住み続けてきた「自分の土地」から追い出される当惑と恐怖。それを被告席に立って闘わなくてはならなくなったウトロの同胞。在日同胞の居住権はどうなるのだろうか。

(1999.04.14 民団新聞)



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