民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<3>

日本人拉致



21年前にら致された蓮池薫さん

■アベックら致

日朝関係に刺さったトゲ
重い足かせいつまで…

 1978年の7月から8月にかけて、北韓による3件の日本人アベック拉致事件が発生した。新潟県柏崎市で起きた事件は、当時中央大学法学部3年に在学していた蓮池薫さんと美容指導員だった奥土祐木子さんを襲ったものだ。

 夏休みで実家に帰省していた薫さんは、7月31日の午後5時半頃、祖母に「ちょっと町へ出かけてくるから自転車を貸してくれ」と言って出かけたまま消息を絶った。午後6時に柏崎図書館(当時)で祐木子さんと会うことになっていたという。自転車は図書館の自転車置き場にひもでくくられていた。

 薫さんは8月1日から福島で開催される高校総体にテニス選手として出場する妹の応援に母のハツイさんと行くため、その日の午前中に電車の切符を買っていた。翌朝7時の電車に乗ることになっていたので、夕方、出かける薫さんにハツイさんは「早く戻ってくるように」と声をかけ、薫さんは「夕飯は家で食べる」と答えている。奥土さん宅には、午後8時頃帰ると祐木子さんから連絡が入っている。それなのに2人は戻らなかった。

 また、その3日前、農家の蓮池家では堆肥積み作業をしてところ、薫さん自ら手伝いにやって来て、父の秀量さんに将来のことで相談を持ちかけた。「弁護士をめざして勉強している。卒業後は法律関係の仕事をしたい。事務所を開業をする時には、資金を提供してほしい」というものだった。秀量さんが承諾すると、薫さんは非常に喜んでいたという。将来への青写真を描くことができたのだろう。薫さんに失踪する理由はまったく見あたらない。

 事件後、半年間に何回か無言電話がかかった。薫さんだとピンときたハツイさんは、「かおちゃんか」と問いつめたが、相手はいつも一分くらい無言の後でやさしく受話器を置いた。明らかにこちらの様子をさぐる感じだったという。同様の電話は奥土さん宅をはじめ、拉致被害者家族の家にもかかっている。警察に逆探知を依頼したが、「事件が発生したわけではないから」と断られた。

 79年2月13日付の秀量さんのメモには、「夜9時頃、無言電話。薫より約一分間」とある。ハツイさんはその時、「早く来てよ。居場所知らせて。死にそうだよ」と泣き崩れたが、電話をそっと切られてしまった。

 蓮池夫妻は同年4月12日、日本テレビの「お昼のワイドショー」をはじめ、家出人捜しの番組に二度出演している。テレビ局にはいろんな情報が寄せられたが、「おふくろに伝えてくれ。元気でいる。心配するな」というものもあった。テレビに出た後、無言電話はかかってこなくなった。

息子との再会を待つ両親
(柏崎海岸で)

 事件から21年が過ぎた今年になって初めて、拉致現場と見られる柏崎海岸に、情報提供を呼びかける警察の立て看板が一つ設置された。同様の事件が再発しないようにという意図は理解できると言いながらも、ハツイさんは「人々の記憶から薄れていく今になってなぜ。しかも一つだけ」と、やりきれない思いを隠せない。

 今年の夏休みも一家団らんの輪の中に薫さんの姿はなかった。ハツイさんは今でも薫さんの夢を見る。記憶の中で薫さんは20代のまま時間が止まっている。

◇◆◇◆◇◆

 日本人拉致は、日朝関係に突き刺さった棘だ。それは韓国籍であれ、朝鮮籍であれ、在日同胞が日本で生きていく上で重い足かせになっている。

(次回から「北送事業」)

(1999.09.01 民団新聞)



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