民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<4>

北送事業−1



■張明秀・元総連新潟副委員長に聞く

 「地上の楽園」という美辞麗句を信じ、あるいは祖国建設の担い手になろうとして、約9万3000人の在日同胞が北韓に渡った。この「北送事業」が始まる前年の1958年から75年まで一貫して実務に携わったのが、かつて朝鮮総連(総連)新潟県本部の副委員長などを務めた張明秀さん(65)だ。北送同胞はスパイ容疑で強制収容所に送られたり、虐殺されたり、行方不明になるなど、人権が蹂躙されていった。自身の責任の重さを痛感した張さんは、88年に総連の姿勢を批判して一切の役職から離れ、「共和国帰国者問題対策協議会」を結成。行方不明者問題を本格的に追及している。91年には講談社から『裏切られた楽土』を発行し、北送事業の実態にメスを入れた。張さんの話を3回に分けて掲載する。


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■「奴隷の国」に送り出した責任

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、張さんは日本共産党員になり、金日成の「正義の戦争」に日本で呼応するのだと、極左闘争に関わった。「民戦」などを経て、1955年の総連結成に参画し、58年には総連新潟県本部の文化宣伝部長の職責にあった。その年8月から北送実現に向けて先頭に立つようになる。

 59年11月、帰国船の新潟港入港を前に、総連中央本部の新潟出張所が設置され、経理課主任になった。12月14日、帰国者が全国から日赤センターに集まって来る。彼らの世話が仕事だった。


■誇りと思っていたのは最悪の犯罪だった

 張さんにとって帰国事業とは、「在日朝鮮人の真の解放の道」だった。両親と兄、弟も62年2月に北に帰国させた。約9万3000人の帰国者に、日本に来てからの生活や帰国の動機を一番多く聞くことができた。そのことが、総連の活動家として30年従事する中で何よりも大きく、誇りに思うことだった。

 ところが、北の実態はどうだったのか。平壌に配置された弟からは「錠前を送ってくれ」と手紙が届いたが、治安の良さを疑うべくもなく無視した。自分の将来を日本ではなく、北の平壌に託していた張さんは、他の総連の活動家とは違い、日本で貯金も一切しなかった。父は帰国後10年して他界したが、父の眠る所が自分の故郷だと考えるようにまでなっていた。

 80年8月、祖国訪問団の副団長として一カ月間、初めて北に行った。その時点では、帰国者の状態が普通ではないと薄々わかっていた。平壌駅前での印象は、金日成、正日父子に虐げられた「奴隷制度の国」というものだった。


■母親からも恨み節

 3泊4日の家族訪問で咸鏡南道端川の兄の家に行った時のことだ。そこには約20年ぶりの再会となる80歳の母も同居していた。滞在中、監視役の案内人がつきまとうので、兄が何の仕事をしているのか、本当の生活の実態も全然わからなかった。夕方、暑いので表で涼んでいると母がやって来て、「ミョンスや、なぜあの時船のタラップを上がる私の足をつかまなかったのか」と責めた。帰国を後悔していることを端的に物語っていた。

 日本にいる時から山が好きだった母は、山菜採りをしては生計の足しにしていた。ある日、松茸を採っていた時、北の子どもたちからキーポ(帰胞=帰国同胞の蔑称)とからかわれ、石を投げつけられた。それをよけるために転んで腰を痛めたという。監視の中で孤立し、差別される帰国者の実態が見えてきた。その母は張さんが日本に戻ってから一カ月後に亡くなったと知らされた。

(1999.09.22 民団新聞)



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