民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<7>

北総事業(4) ◆呉基完・元「迎接委員」に聞く(上)



呉基完氏

 「北送事業」で北に渡った在日同胞を受け入れたのは、政府機関「在日帰国同胞迎接委員会」である。委員長は金一副首相(当時)で、補佐官だった呉基完さん(73)は、二十人いた迎接委員の一人として「帰国者」に職場を配置したり、思想的背景を探るのが任務だった。呉さんは六五年九月二十七日に韓国に帰順しているが、その理由は北韓での将来が危うくなったためだと言う。呉さんが結婚しようとした相手は、六・二五動乱の時に越北した韓国出身の女性で、ソウル大学出のインテリだった。「南朝鮮」「インテリ」という出身成分は、北韓では致命的な障害である。金副首相の怒りを買い、労働党員の女性をあてがわれそうになったが、それを拒否すると結婚一週間後に補佐官をクビになり、労働現場に送られた。かつてソ連に留学し、金日成大学の一期生でもあったエリートが、一生を日陰者で終わるのかどうか、さらにソ連留学経験者は粛清の対象という危険も迫っていた。悩んだ末の亡命だった。呉さんの話を二回に分けて掲載する。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 一九五九年十二月十六日の午後、「帰国」第一船が清津港に到着したその日は、みぞれまじりの寒い日だった。呉さんは「帰国者」を歓迎するために動員された二千人の住民とともに清津港にいた。「日本の一般生活水準は高いが、在日朝鮮人はみすぼらしくかわいそうな生活をしている。だから耐えきれなくて帰国を願っている。社会主義建設で私たちと同じく幸せな生活をしよう」と迎える側は思っていた。北韓がそう宣伝していたからである。

 ところが、事態は思わぬ方向に向かう。船が港に近づくにつれて、甲板の上には「金日成万歳」を叫ぶ者もいたが、乞食のような集団がやって来ると思っていたのに、想像もつかないほど立派な身なりをした人たちが視界に入ってきた。

 「これは何かの間違いだ。なぜ幸せそうな彼らが朝鮮に帰ってきたのか」。呉さんはとっさにそう思った。手に手に旗を振って歓迎ムード一色だった住民たちも自分たちよりもはるかに生活水準の高い「帰国者」を前にして、何が起こったのかポカーンとしていた。先に偉い人たちだけが帰って来たのだと思い込もうとしたという。

 船の上でも衝撃が走った。年老いた在日一世は想像していた世界と現実との余りの違いに声を失ったが、若い在日二世はタラップを降りながら「これはウソだ。何かの間違いだ」と日本語で大声を上げた。

 「祖国に帰って来たのに何を言っているか」と脅しても、迎接委員の目に映った日本育ちの自由主義的な行動は容易に収まらなかった。

 双方が受けたショックは余りにも大きく、埠頭で開くはずの歓迎会は急きょ中止になった。不測の事態を避けるためである。港近くの収容アパートに場を移し、北では普段味わうことのできない白い米、肉のスープ、様々なおかずで「帰国者」を特別待遇した。「一年に一度ありつけるかどうかわからないリンゴや梨、お菓子までふるまい、心から歓迎をしました」と呉さん。

 しかし、「帰国者」は「こんな粗末な物は食えない」とほとんど手をつけず、不満をあらわにした。在日同胞の北への第一歩はこうして波乱含みで始まった。

 「北送事業」が始まって二年後、金日成は内閣会議の席上、「帰国事業はやるべきでなかった」と話したというが、在日同胞「帰国者」も六二年以降その数が激減している(表参照)。

(1999.10.13 民団新聞)



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