民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<11>

「北送」一家離散家族に聞く(上)



家族離ればなれになった朴春仙さん

 朴春仙さん(62)は三男六女の次女として、横浜市鶴見区潮田に生まれた在日二世だ。兄弟姉妹のうち4人が「帰国船」で北韓に渡ったが、家族の誇りだった次兄の安復さんは知らぬ間に銃殺という無惨な最期を遂げていた。残った長女、五女、三男の3人は今も北で健在だというが、春仙さんが「兄を返せ」と叫び、北韓を糾弾する運動に関わってからは直接消息が届かなくなった。日本に残ったもう一人の妹あてに連絡が来るだけである。「北送」によって一家が離散した春仙さんの話を2回に分けて紹介する。


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■貧困で狂った歯車

 1940年代、徴用や出稼ぎなどでほとんどが貧しい生活を送る鶴見の同胞密集地域の中で、春仙さん一家は母が食堂を経営したり、ムーダン(巫女)の仕事をするなど、裕福な暮らし向きだったという。

 ところが、母が1945年2月に亡くなった頃から歯車がかみ合わなくなってきた。同年3月の東京大空襲で家が焼かれ、戦争から復員してきた長兄の仁復さんも46年の秋、27歳の時にトラブルに巻き込まれて日本のやくざに殺され、50年に父も亡くなると一家は乞食同然の生活に落ちぶれた。


■兄と姉、新天地求めて北韓へ

 頼りになるはずの次兄の安復さんは、鶴見朝鮮初級学校の第1期生として卒業後、東京・北区十条の朝鮮中級学校に通いながら、夜は住み込みのバイトを始め、家にはなかなか帰ってこなかった。

 そういうすさんだ生活を、長女の玉順さんが20年間も水商売で苦労して支えてきた。その姉が北に帰ると言う。当時、23歳だった春仙さんは、また新しい土地で苦労するのかと思ったら、行く気持ちも全くわかなかった。

 「朝鮮戦争が終わってすぐだというのに、『地上の楽園』というのはおかしい」と引き留め、しつこく「行かないで」と迫ったが、「北に行けば日本の辛い生活から解放される。子どもたちはタダで大学に行けるし、いいアパートにも住める」と夢を託す6歳上の姉の決意は固く、しょっちゅう喧嘩してはひっぱたかれたこともある。


■家出と結婚

 姉は働いていた焼肉店を売ってでも、「帰国」準備を進めた。このままでは自分も連れて行かれると恐くなった春仙さんは、船が出る六カ月前に荷物をまとめて京都の叔母の元に逃げ出した。

 京都での生活が慣れた頃、春仙さんは総連の堀川支部に出入りしながら同世代の同胞と祖国の歴史を学んだりするようになった。そこで知り合った青年と1960年1月に結婚する。その一カ月後、姉は子ども2人と五女の末仙さんを連れ、第55船で北に渡った。一方、兄の安復さんは朝鮮学校の中で民族意識が強烈に芽生え、48年のGHQによる朝鮮学校封鎖にも徹底的に抵抗して警察に逮捕されたりもした。

 55年の総連結成を期に、兄は在日朝鮮中央芸術団(現在の金剛山歌劇団)に所属し、やがてダンスに芝居にめきめきと頭角を表すようになる。春仙さんにとっても「在日同胞のスター」になった兄は憧れの的だった。

 兄はその後、同じ芸術団の羅シングンという女性と結婚したが、彼女は韓国の光州から密航で日本に来た人だった。夫婦に2人の子どもができた頃、今度は兄が「帰国」すると言い始めた。かなりショックを受けたことは言うまでもない。

 兄の「帰国」は春仙さんの人生を大きく狂わすことになる。

(1999.11.10 民団新聞)



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