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北韓の国家的犯罪を斬る<14>

民主無窮花代表に聞く −下−



 父は76年頃、全国の商工人20数人と第2次商工人代表団で北韓を訪問したことがある。一国の主に会うのに手ぶらで行かせる訳にはいかないと、正日氏は最高級のグランドピアノをおみやげに持たせた。

 引率団長は芦屋出身の総連の大物経済人、文東建氏だったが、初めて会う金日成の面前では直立不動で言葉が出ないほど緊張していたという。

 その時に金日成と一緒に収まった写真は、1枚が何と300万円もした。買うことを拒否をする人も中にはいたが、「寄付名目」で強制的に買わされた。

 80年5月、正日氏にとっては最初で最後となった北韓への短期訪問団は、西神戸から50人以上が参加した。北に向かう船中で父は、「あのお金は国にではなく、弟にあげたかった」と悲痛な思いを初めて告白した。正日氏もその訪問で叔父をはじめ親族に会うことができたが、「そんなにも生活が悲惨か」と思い知らされることになる。


■山盛りのお土産

 正日氏は親族へのおみやげにサッカリンと味の素をそれぞれ20キロ、自動巻の腕時計を160個、ネッカチーフ1000枚、電気計算機20台、当時は高級品で一台10数万円もしたというプリンタ付きの卓上計算機を二台、それに使い捨てライターを500個くらい、その他もろもろの品物を準備した。

 その荷物のほかに、日本では着なくなった古着の背広やコート、下着までを3つのパッキンケースに詰めた。「北では古着でも喜ばれる」と妻が聞いていたからだったが、正日氏は気が進まなかった。

 「古い物を持って行って恥をかくのではないか。ここ新潟で捨てていこう」「捨てるのは向こうに着いた時でも捨てられる」。夫婦でのやり取りの末、結局持って行くことになった。この気遣いは杞憂に終わるどころか、「帰国」した親族間に葛藤をもたらす。


■北韓で見た現実

 船が翌朝午前5時頃に元山港に着いた。しかし、下船する時には、いとこの弟や妹の顔がわからなかった。それほど、長い歳月と苦しい生活は人間の表情を変えていたのだ。

 休養所に着き、食事を前にして朝鮮労働党党員の叔父が例の「偉大な金日成首領、信愛なる金正日指導者のおかげで何不自由なく暮らしている」とあいさつをする。

 その叔父が次の日、しきりに表に出ようと誘った。部屋の中には盗聴器が仕掛けられていて、まともに会話が成立しないのだとピンときた。新宿御苑の十倍もあるだだっ広い公園で叔父は、泣きながら「助けて下さい」とすがりついてきた。ほかの親族も「日本に連れて帰って」と哀願し続ける。気が動転した。

 部屋に戻り、おみやげを分配した後、古着を詰めた3つのケースは全部叔父に渡した。すると、いとこの弟が廊下に呼び「兄さん、私にも服を分けて下さい」。「叔父さんからもらえばいいではないか」と答えると、「絶対にくれない」と言う。いとこの妹にあげた100個のライターについても叔父夫婦は、「あの子はタバコを吸わないから取り上げよう」と夜中にひそひそ話していた。あ然とした。親子関係という人間の情が、生活苦によって断ち切られていたのである。


■もう我慢できない

 一週間ほどして、訪問団には金剛山観光と河原での焼き肉パーティが準備された。ここでついに正日氏の堪忍袋の尾が切れた。「帰国」以来、一度も牛肉を口にしたことがないという親族のことを考え、「焼き肉を食べに来たのではない。この肉は人民に分けてやれ」と怒鳴ったのである。側には労働党の指導員がいた。両親が必死に止めたが、「逮捕するなら逮捕しろ」と怒りをぶちまけた。指導員はただ苦笑いをしているだけだった。

 日本に戻ってから1年くらいは気が狂うほど悩んだ。しかし、25歳で西神戸商工会の一番若い理事に抜擢され、若い朝鮮人連絡会を結成して幹事長になったり、総連の分会長など30年にわたり総連組織に身を投じた正日氏も96年1月、ついに商工会の副会長職にありながら辞表を提出、総連社会から身を引いた。「在日の組織は在日の生活と権利を守るためにある。総連は北の奴隷でしかない。騙され続けてきた」。97年4月『もう我慢ならない!総連と祖国の矛盾と惨状』というタイトルの手記を発表。7月7日に「民主無窮花」を立ち上げた。

(1999.12.01 民団新聞)



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