民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<15>

元朝鮮学校理事に聞く=上=



洪恵博氏

■元朝鮮学校理事の洪恵博氏

 「南の李承晩は在日同胞を捨てたが、わが金日成主席は民族の太陽」だ。大阪市西成区出身の在日2世、洪恵博氏(58)は心底そう思っていた。1961年8月、父の洪仁鐘氏と日本人の母、弟と2人の妹が北韓に「帰国」し、自分だけが日本に残った。後から帰るつもりだったが、父からの手紙で状況が思わしくないことがわかってくる。これまで子ども3人を朝鮮学校に送り、学校の理事も務め、苦しい生活の中にあっても積極的に組織に寄付をしたり、同胞の集いを企画するなど、総連組織を支えてきた。しかし、家族の消息が途絶えたことで北韓に対して拭いきれない不信感が生まれ、総連が何の力にもなれないことにも幻滅して、総連との25年余りの関係にケリをつけた。恵博氏の話を2回紹介する。


◇◆◇◆◇◆


北の実態、手紙に託す
「帰国」の父、横書きなら「窮状」のシグナル

 中学校1年の時に実母が亡くなった。当時、父は出稼ぎ先の青森で養豚業を営むかたわら、密造酒のヤミ商売をしていた。父を頼って家族全員が青森に引っ越した。

 大阪にいた時は日本の学校に本名で通っていたが、民族の違いは何の問題にもならなかった。ところが、青森では名前をまともに呼ばれず、チョーセンを逆さにした「船長」呼ばわりされるなど、三カ月くらいからかわれた。学校全体で同胞は3人しかいなかった。その1人が、北韓に「帰国」した後に、夫の呉寿龍氏とともに韓国に亡命した金初美さんだと後に知る。

 中学校3年の時、高校受験の準備のために父の勧めで1人だけ大阪に戻った。教育の機会を奪われた1世にしてみれば、子どもを勉学で出世させたいと思ったのだろう、「苦労してみろ」と送り出された。高校は昼間働きながら夜学ぶことのできる定時制に入学した。すでにその頃から父は「帰国」を考えていたようだ。

 家と土地を売り、まとまったお金を手にした父は、万一のためにと高級時計10個を準備し、1961年8月、家族5人で「北送船」に乗った。


■家族の「帰国」

 「母にしてみれば、後妻ということで白眼視される土地を離れ、新天地で本当の母になれると思ったのではないか。北に行くことでの不安はなかったようだ」と恵博氏は言う。家族から尊敬され、愛されていた家長の父の決定は絶対で、高校生になったばかりの弟や妹も素直に「北帰行」に従った。

 恵博氏1人だけが日本に残ったのは、本人の意思だった。二つ理由がある。一つは、子ども心に辛い思いをした青森の体験によって、また違う所に行くことへの不安をかきたてられたこと。二つには、いつでも行けるだろうと思っていたことである。もともと個人の意思を尊重する父は納得してくれたが、自分も後から行くと答えた。家族を見送るために青森を経由して新潟まで行ったが、さすがに港での見送りは辛くてできそうもなかったので1日早く大阪に戻った。結果的に、この日を最後に家族との再会は果たせていない。


■北礼賛とは裏腹に

 「帰国」した家族からはすぐに便りが届いた。生活が苦しい時は手紙を横書きにするという父との約束だったが、その手紙は縦書き全盛時代には珍しく、日本語の横書きになっていた。他人が見たら「何と北朝鮮は素晴らしい」と思わせるような北礼賛の内容だったが、文面とは裏腹にいつも苦しい状況が見えていた。

 例えば、一番近い親戚の子どもは生まれて間もない2歳なのに、手紙の中では大学生にされていて「あの子が大学を卒業する頃にはもっと素晴らしい国になっているだろう」と書かれていた。あと20年もしないと豊かな生活ができないという暗示だった。

 また、「岡山にいた頃の楽しい思い出が蘇ってくる」という表現もあった。岡山というのは戦時中の疎開先で、当時4歳くらいの恵博氏には記憶がほとんどないが、他人の家での居候生活は、決して楽ではなかったと聞かされたことがある。父は100キロの大男で腕っ節も強く、経済的にも恵まれていたので普段は偉そうにしていた。その父が体を縮めるように神経をすり減らしていた土地が岡山だった。そこの生活を懐かしむとは、一体どういうことだろう。北への疑心暗鬼が芽生えてきた。

(1999.12.08 民団新聞)



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