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青年会って? |
主な活動 |
会員案内 |
青年会のあゆみ |
結成30周年を迎え
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結成の背景
◆第一期(1977〜1978)◆第七期(1990〜1991)
◆第二期(1979〜1982)◆第八期(1992〜1993)
◆第三期(1982〜1983)◆第九期(1994〜1995)
◆第四期(1984〜1985)◆第十期(1996〜1997)
◆第五期(1986〜1987)◆第十一期(1998〜1999)
◆第六期(1988〜1989)
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結成の背景
在日同胞史をたどる時、在日韓国青年運動史を欠かすことはできません。1919年の"2・8独立宣言"を起点とした在日韓国青年運動の伝統と原則は、70年ちかくの歳月を経て、1987年の現在、我が在日本大韓民国青年会へと継承されています。かつての民団傘下の青年組織の誕生がそうであった様に我々青年会も、結成に至るまでに様々な混乱と時代の激動を通過してきました。その期間が1970年代の初頭の"民団混乱事態"から我々青年会の結成がなされた1977年までの間です。
民団内部に潜行していた朝総連のフラクション一派、"有志懇"によって、ひき起こされた一連の暴力と不条理が"民団混乱事態"です。
「東京本部襲撃事件」「三機関長殴打事件」等の事件にも見られた様な無秩序と破壊行為の先兵として立っていたのが、当時の民団傘下にあった"旧韓国青年同盟"並びに"旧韓国学生同盟"です。"有志懇"の影響下にある一部指導層の誤導によって、在日韓国青年運動の流れは、極めて危険且つ独善的な方向へとむかおうとしていました。
韓半島全体を視野に入れた評価基準の欠如や、極めて政治的な運動路線への傾倒による観念的体質もさることながら、一般在日同胞青年の素朴な欲求や、在日同胞社会自体の変化への能動的対応の欠如が、旧韓青・学同運動の限界性を示して余りあると言えるでしょう。これらの運動体の在り方に疑問を持ち、同時に余りにも野蛮な暴力によって義憤にかられた青年有志が一同に会し、1972年5月2日、「韓青中央執行部乱動糾弾大会」を開催したのです。集会当日、旧韓青の青年たちが、集会阻止の為に会場内に乱入しようとしましたが、独力でこれを排除し、在日同胞社会並びに青年に向けて、旧韓青・学同の誤った在り方を糾弾しました。この集会を起点に、民団正常化に向けて、これらの青年たちは奔走し、旧韓青と物理的に衝突しながら組織整備に携っていったのです。この時期にあって、数々の犠牲を出しながらも、民団正常化の為に献身的に闘った青年たちが、我々青年会の結成の礎となった先輩たちなのです。
1972年7月7日の民団第20回中央委員会によって"民団混乱事態"は、一応の終止符が打たれ、同時に旧韓青・学同も傘下団体取り消し処分を受け、在日韓国青年運動史は空白期を迎えました。そして次なる青年運動の担い手としての青年会結成への動きがつくられていくのです。
祖国の発展に実践的且つ具体的に携わる試みとしての「60万のセマウムシムキ運動」が1973年より開始され、同時に前年より広島をはじめとする各地方での青年会結成により、新たなる在日韓国青年運動体構築の気運が高揚し、1976年"在日本大韓民国青年会中央本部結成準備委員会"が設立されました。翌1977年2月27日、民団中央会館にて"在日本大韓民国青年会中央本部結成大会"が開催され、ここに我々青年会運動の歴史の幕が開かれたのです。
◆第一期(1977〜1978)
尹隆道君が率いる第一期執行部の課題は、数多く類在していました。まず何よりも青年運動及び在日同胞全体に無用の混乱を引き起こす旧韓青をはじめとする"韓民統"との闘いでした。
民団組織から放逐された"有志懇"一派が衣を変えただけのこのグループは、日本マスコミの偏見報道をバックに、反国家的言動や行動を行なっていました。彼等の行動を黙過することなく、種々の糾弾行動を展開し、1977年8月13日には、東京上野の「池ノ端文化センター」において、"韓民統"主催の「代表者会議」なる会議を阻止しようと200名近くの青年会会員と旧韓青盟員が衝突し、76名の本会会員が逮捕されるという未曾有の大事件、「8.13事態」を引き起こすに至ったのです。
本国の実像を直視しようとしない日本マスコミ報道の在り方と、相対的な視点を持たず批判の為の批判を繰り返すのみの旧韓青への憤怒の念が噴出したのがこの「8.13事態」です。この衝突事件を起点に裁判闘争が開始され、"韓民統"の正体や主張の矛盾点を広く満天下に暴露し、"韓民統"に決定的な打撃を与えたのです。
これと並行して第一期執行部が取り組んだのが、在日同胞青年の幅広い連帯と交流でした。青年運動空白期によって、大衆的な青年同士のふれあいの場を与えられることのなかった一般青年に、交流の場を提供するために企画されたのがサマージャンボリーでした。
1977年、長野県の霧ケ峰高原にて1,000名以上の青年が結集し、在日韓国青年運動史における快挙を成し遂げ、翌1978年には三重県の「合歓(ねむ)の郷」で2千名ちかくの青年が集い最大規模の動員を果たしたのです。
これらの大衆事業と並行して、青年意識調査事業や新しい青年像の定立を提唱した「セマウム青年100日間運動」を展開し、内部充実、組織強化を図っていったのです。
2年間の活動の中で第一期は、外には、旧韓青や朝総連との闘い、一般青年の大衆的結集をサマージャンボリーにて行ない、在日韓国青年運動の復権を図り、内には組織整備、幹部訓練を施し、青年会組織の礎を築き上げたのです。
◆第二期(1979〜1982)
第2回中央大会で選出された林三皓執行部の役割は、理論面での整備及び組織体制の整備・強化であり、来たる1980年代における青年運動の方向性提示にありました。1979年において、地協開催のジャンボリーで2,000名以上の青年の参集を図り、内外に青年会組織の存在を知らしめる一方、国際人権規約批准を受けて、在日同胞への国民年金の適用を求める為の「国民年金適用差別撤廃を要求する五万名署名運動」を、光州学生運動記念日の11月3日に向け、全国的に展開しました。しかしながら10月26日、韓国の朴正煕大統領が兇弾に倒れるという10・26事態に遭遇し、変更を余儀なくされました。その上で目標数を2倍の10万名に繰上げ、80年の2月10日を目標最終点に掲げました。これは、大統領の急死という事態にあって、悲しみの底に沈む在日同胞社会に向けて強固な青年隊列の存在を誇示することにより、勇気と活力を与える契機とする為であったのです。
1980年2月10日、東京三田の笹川記念会館にて「民族主体性を持ち民族差別と闘う在日韓国青年全国集会」を開催。この種の集会としては、史上初の1,000名以上の青年の動員と8万名分の署名を集め、日本政府に対し、速やかに在日外国人に対しての国民年金の完全適用を要求しました。この集会で青年会はあらゆる差別と闘うこと、「91年までの法的地位問題」に取り組んでゆくことを内外に表明したのです。以降、その具体的な活動として「国民年金完全適用運動」へと継続し、そして上福岡三中民族差別糾弾闘争に発展してゆくのです。
他方10・26事態を起点とした本国の情勢は、極めて流動的であり、何よりも政治的安定と経済伸張が望まれていましたが、一部の扇動政治家の行動によって、絶えず不安定な状況下にありました。これらの本国の状況を悪用しようとする"韓民統"・朝総連の妄動を粉砕し、同時に組織強化を期すために「セマウム青年民族正気120日間運動」が提起され、今後の青年運動の担い手としての実力培養を図っていったのです。
上記してきた結成以来の青年会運動の総括と今後の課題を明確にし、自らの望む未来像を定立するために、1981年秋から翌82年春まで展開されたのが「結成5周年運動」です。全国各地に研究サークルである「未来をみつめる会」を構成し、在日同胞社会に存在する様々な問題を論議・研究。同時に各界各層より研究者を招き、種々の研修会を開催し、1982年4月の報告集会で未来への提言を行なったのです。同時に運動期間中、青年会並びに学生会結成準備委員会との共同歩調の下、1981年11月3日、在日本大韓民国学生会中央本部が結成され、10年近くの学生運動の空白期間にピリオドを打ったのです。
更に同年に結成された在日韓国青年商工人連合会並びに、在日韓国YMCA、学生会という、在日韓国青年学生4団体合同で63周年目の1982年2月8日に神田の在日韓国YMCAにて「2・8独立宣言運動記念碑」を建立しました。2・8の先烈らの気概とその原則性を永く記し、在日韓国青年学生運動のシンボルとして設置したのです。
◆第三期(1982〜1983)
1982年4月25日の第3回定期中央大会にて"壮大な未来創造の為に高らかにその出発を告げる"第三宣言文で方向性をより鮮明化し、前副会長の鄭夢周君を三代目の会長として選出しました。新執行部の発足後の最初の課題は、日本国社会科教科書の史実歪曲問題でした。韓国のみならず中国、タイ、シンガポール等の日帝侵略の傷跡を持つ国々をも巻き込んだこの事件に対し青年会も緊急の対応を取り、文部大臣宛ての公開質問状を提出し、更には9月1日、「日本国教科書史実歪曲完全是正要求在日韓国青年学生代表者集会」を開催し、全国から150名の青年が直接文部省に赴き、在日同胞青年の怒りの声をぶつけたのです。この教科書問題を内部的に転化した後に提起されたのが「我々の歴史を取り戻す運動」でした。
他国や他民族に歪曲されることのない在日同胞自身の歴史を記そうとのスローガンの下に、全国的な実態調査を展開したのです。青年会としても初めて科学的且つ本格的な社会調査事業であり、約50項目の質問をマンツーマン方式を駆使し、最終的には1,000名以上の同胞からの調査票を作成、回収しました。これらの作業を通じて二・三世青年と今日の基盤を築いてこられた一世の方々との間に対話がなされ、青年達に深く歴史認識が根付き、未来への"礎"としての同胞史を編纂してゆくのです。
翌年には、指紋押捺及び常時携帯義務を課した外国人登録法の改正運動に全面的に取り組んでゆきます。民団の提唱した「指紋押捺・常時携帯制度撤廃100万人署名運動」に基軸を合わせ、自らも自主目標を20万人分とし、署名運動に突入していったのです。この膨大な数を達成すために、機動部隊として「日本縦断自転車部隊」を構成、北は北海道から南は沖縄まで縦断しながら署名を集め、同法の改正を訴えてきました。
同時に、この問題について研究を重ねてきた知識人・運動家・弁護士を講師に招き、巡回講演会を開催、理論面での強化も図りました。そして全国の青年会員が街頭に出て、同法の改正を訴え、日本国民に署名を募ったのです。この運動は「KAL撃墜事件」「ラング−ン爆弾テロ事件」という2大悲劇に遭遇しながらもよくそれを乗り越えて推進されていきました。そして、12月11日の「12・11外登法改正を要求する在日韓国青年代表者集会」にて、17万名分の署名を確保し、法改正に向けての青年会の不退転の姿勢を広く内外に誇示しました。
外登法改正運動への取り組みと並行して、来たる「91年問題」を視野に入れた研究機関としての居住権専門委員会の設置も確認され、長期的展望に立脚した未来像構築への足がかりとしていったのです。
◆第四期(1984〜1985)
83年度の外登法改正運動の成果と総括を携えて、1984年2月に第5回定期中央大会を開催、それまでの年齢上限を35才から30才までと引き下げ、権清志第四期執行部が発足しました。来たる1985年夏の大量切り替え期を控えて、外登法改正運動への全面力量傾注を図ったのです。
前半期においては、"草の根運動"を、10月5日には在日大韓婦人会との共催で「外登法改正闘争在日韓国青年・婦人決起集会」を東京の荒川区民会館にて、1,200名近くの婦人・青年の見守る中で挙行し、拒否を前面に出した"外登法改正闘争委員会"の設置を確認しました。以後、闘争委主導の下で一連の統一行動で拒否者を現出していったのです。
国際・本国、そして日本世論をバックに改正運動の高揚を図り、1985年2月8日から3月1日までの21日間、総勢120名近くの青年たちが神戸から東京までの約709kmを徒歩で踏破する「指紋押捺拒否東海道人権行脚」を挙行しました。人権の尊さを侵害されることの苦しさや悲しみを自らの身をもって訴え、全ての同胞、心ある日本人に向けてのアピールをもって、行脚隊は、民団団員大衆より熱烈な歓迎を受け、来たる留保運動への条件作りに寄与したのです。1985年前半期は、法改正をめぐって日本政府側と運動側との間に熾烈な攻防が交わされ、青年会も敏速且つ適切に対応し、拒否宣言者への再入国不許可の粉砕、5・14通達の形骸化に向けての自治体交渉、外国人記者クラブを通じての国際世論への働きかけ等の一連の行動を通じ、改正運動での先駆的且つ原則的な役割を担っていったのです。
7月からの大量切り替えをふまえ、民団が「指紋押捺留保運動」推進を確認し、青年会も"拒否できる同胞は拒否を!留保が可能なら留保を!押捺せざるを得ないなら抗議の意の表明を!!"をスローガンに「解放40周年、全国縦断"恨"ストリレ−」を決行し、7月1日から8月15日の光復節までの40日間に、全国8ヵ所で70名近くの青年たちが断食闘争に突入しました。白いパジチョゴリに身をつつみ、在日同胞全体の決起を促したのです。民団団員もこれに呼応しその底力を発揮し、最終的に14,000人もの大量拒否留保者が現出したのです。日本政府の弾圧も激化し、不当逮捕の続出、在留期間更新不許可等の卑劣な手段を構じるまでに至りました。しかしながらその弾圧がエスカレートすればする程に彼等自身が窮地に追い詰められてきており、法改正は回避することができない時代の大勢となったのです。
外登法改正運動への取り組みの中から、青年会は自らの民族性を涵養することの重要性と国際的な視野に立った開放性を追求する課題に応じる為に"プリ青年講座"の開講と「'85青年の船」を挙行したのです。国際青年年、そして来たる1990年代の青年運動を展望すために11月10日から14日までに神戸から沖縄へ"サンフラワー号"に全国から300名以上の青年と日本・台湾・タイ・シンガポールの参加者が結集して行なわれました。船内での集中した講義と文化サークル等の一連の具体的行動を通じて、自らの同胞文化創造の可能性を確認したのです。そしてこの船を通じての結論が、青年会「結成10周年記念事業」へと引き継がれてゆくのです。
◆第五期(1986〜1987)
第四期執行部を率いる権清志君は、第7回定期中央大会にて再選され、青年会は、第五期を迎えるに至りました。前半期において世代交替を推進すために民団の創団40周年事業の一環としての民団ジャンボリーに携わりました。8月16日から19日までの4日間、本国のソウル大のキャンパスに約700名近くの在日同胞青年学生が参集し、次代の担い手としての自らの立場、課題を確認したのです。
1986年度の後半期、外登法問題も、日本政府が"生涯1回制度"なる妥協案を出すに至り、運動も新しい段階に入ろうとしています。しかし、この案では、何等、本質的な解決につながるものではなく、あくまでも原則的な姿勢をもって完全撤廃に向けて勝利貫徹をめざしてゆくとしたのです。
青年会が1977年に結成されてから10年の歳月が流れようとしています。これらの10年間の活動の蓄積と総括をもって、今後10年後、20年後の青年運動を展望する上での事業として"在日同胞文化の可能性追求"をねらいとした「結成10周年事業」が展開されたのです。
「結成10周年記念事業」は"今、在日同胞文化の創造を!"をスローガンに、全国各地に文化サークルを設置し、また本国から講師陣を招き、文化キャラバン隊を構成して全国を縦断し、在日同胞文化創造の種子を全国に散布していったのです。そして、この文化事業の終結点ともいうべき、在日同胞最大の密集地である大阪において、2月6日から8日にかけて「21世紀を生きる青年祭」と銘打った一大イベントを開催しました。
1987年前半期には、「91年韓日法的地位協定再協議問題」もいよいよ目前に迫っていた中で、80年代における青年会運動の総決算ともいうべき安定した居住権の確立を目指す上で、第2次青年意識調査を展開したのです。それは、我々二・三世青年の多様な意識を調査し、基本的な考えを在日同胞・日本社会へ明らかにし、韓日法的地位再協議に反映させる意味で実施したものです。
そして後半期には、第1次、第2次の青年意識調査事業の発展段階として、全国青年会員の望む韓日法的地位協定再協議像の意見の集約を施すために、「学習みつめる会」活動を展開したのです。その結果をもって青年会は、二十世紀を生きる在日韓国人青年の確かな意思を"提言"として、韓国政府並びに日本政府と社会全体に、そして在日同胞全てに示し、『居住権』確立運動へ全面的に突入して行くのです。
あの2・8の先烈たちの示した先駆性、献身性、組織性が、在日韓国青年運動の原則です。我々青年会は、2・8を起点とした在日韓国青年運動の正統な継承者としての光栄と、民団組織の次代を担うものとしての重責を負いながら、新たなる運動史創造に向けて邁進してゆくのです。
◆第六期(1988〜1989)
第6期の安亨均君を会長とした執行部は、時限的な「91年韓日法的地位再協議問題」と「文化創造事業」の2つの課題、所謂「両車輪の課題」に取り組みます。
1988年度は民族の悲願である「88ソウルオリンピック」の開催に伴い、開会式試演会への参観団を決定し、結果的に全国から青年700名以上を参集させました。そこで、青年の連帯は勿論、本国の発展した姿に参加青年は感銘を受けました。
88年後半期、法的地位問題の啓蒙と併せて、組織の強化をねらいとした、「組織強化キャラバン花郎隊」は、東北、関東、近畿を中心として巡回し、その結集を「居住権シンポジュウム」(12月、於滋賀県)としました。「居住権シンポジュウム」では、カルチャークラブなどの文化面での内容と、本国の再協議実務担当者を招き、韓日間の協議について説明を受け、さらに当事者である我々の声をぶつけました。そして、5周年事業から外登法改正闘争を経て、本会が精力的に取り組んできた再協議の提言をその場で採択し、それに向けて全体が一丸となって闘うことを確認しました。
その提言を受け、1989年度は再協議の抜本改定に向けた「署名活動」を展開します。それは、再協議の当事者である在日青年が、その問題すら分からないという現実に危機を感じてのものでした。家庭訪問で直接在日青年に問題を啓蒙し、本会の提言を理解したうえで署名をもらうという、本会の基本である草の根的な活動でした。12月の報告集会では、全国より約7000名の署名が報告され、再協議の期限とされる1991年1月16日の丁度1年前にあたる1990年1月16日に『韓日法的地位の抜本的な改定を要求する陳情書』と共に、日本国首相に伝達しました。
◆第七期(1990〜1991)
第7期の金京必会長は、前年度強力に進めてきた署名活動の成果である署名簿の本国伝達「4・23行動」を始めとした「91年韓日法的地位再協議問題」に力量を傾注しながら、併せて残り10年後と迫る21世紀に向け、青年会の真の姿である大衆団体たる原点を見つめ、大衆基盤の拡大を掲げました。そして8月三重県において開催した"ザ・ちゃんち"には、全国から1,500名の青年が参集するなかで、21世紀のビジョンを提示しました。また、この年から民団主催の「青少年故郷訪問団」にも積極的に参与し、大衆基盤の拡大に努めたのです。
一方、時限的な韓日法的地位再協議は、91年1月初旬、日本国首相の韓国訪問による中途半端な解決が予想されるなか、年末・年始を通して様々な活動を展開しました。ビラ配付による情宣活動を始め、自動車デモ、そして海部首相の訪韓時期に合わせ、東京数寄屋橋にて「ハンガーストライキ」(1/5〜10)を行うなど、精力的に問題を世論化させ訴えました。青年会結成当時から取り組んできた再協議は、1月10日に周知の通り、当時の盧泰愚大統領と海部首相によって交わされた「韓日間の覚書」で、不本意ながらも一定の決着を見ました。しかし、この覚書のなかで日本政府が我々在日韓国人の存在を初めて隣人として認め、共存、共栄の意志を明らかにしたことによって、本会のこれまでの取り組みの成果を確認することができたのです。
1991年、第12回定期中央大会では、再協議の一定の終結により、取り組みを未来展望に立った「創造型」、現在の内実化作業に重点を傾けます。青年・組織・社会の3つの内実化によって民族主体性のある在日同胞青年の輩出、住みよい社会構築、強靱な組織の確立を目指した内実化作業を本格的に展開していくのです。
また、この年千葉の幕張メッセで開催された「世界卓球選手権大会」は、分断後初の南北単一チーム「コリアチーム」が参加することを受け、本会と朝青による単一応援団を構成し応援にあたりました。祖国分断から40年を経て、結成された悲願の単一チームの合同応援を通して、祖国のイデオロギー分断から、常に「見えない38度線」により遮断されていた朝青と、イデオロギーを超えた民族としての同一性が確認されたといっても過言ではありません。
この大会を通して本会は、「和合」への可能性を見出し、その後の「和合」への取り組みへと発展するのです。
◆第八期(1992〜1993)
第8期は金京必君が再選されました。
その年の4月、1991年1月の韓日覚書を受けて、通常国会では「外登法改正案」が審議されていました。しかし、その内容は指紋押捺制度が撤廃されたものの、それに替わり不署名罪が新設、依然とした常時携帯制度の適用など、基本的な管理政策には何等変わりのないものでした。このような覚書の精神に逆行する日本政府の蛮行に対し、本会では現在まで改正運動を先端的に牽引してきた責任と、在日同胞社会の前衛であるという自負心から、通常国会開催中の4月14日、東京にて「4・14行動」を決行しました。意を同じくして全国から緊急集結した約100名の青年は、衆議院会館にて、最後まで闘い抜く確固たる姿勢をシュプレヒコールに反映させました。また、行動はマスコミを通じて広く世論に伝わり、本会の不退転の姿勢を内外に示しました。
一方、第7期から推進中の内実化作業にも、継続して注力していきます。特に後半期に至っては、内実化作業を活性化すべく「巡回キャラバン」を実施し、内実化取り組み地方には取り組みを、また、他地方には活性化を施していったのです。
そしてその集結として、また、2年間にわたる内実化作業の収斂の場として、第1回祝祭「第74周年2・8独立宣言記念 在日韓国青年祝祭」を2月6〜7日、大阪の地で開催し、全国から内実化作業に尽力してきた約600名の青年を集結させました。
そこで、これまでの内実化の取り組みを成果発表で確認し、民族の「和合」に向けたシンポジュウムにて問題提起を図り、そして参加者全員による大農楽隊で我々在日同胞の限りない可能性を確認し、提示したのです。
そしてこうした内実化の取り組みは、翌年の神戸で開催された地域住民との共存共栄をアピールした「第2回祝祭」へと発展していったのです。
また、第8期執行部では、来たるべき21世紀を視座にいれ、在日同胞青年の意識を把握し、そこから組織のなすべき課題、社会への展望を導き出すべく、「第3次在日韓国人意識調査」を1993年の6月から8月末にかけて実施しました。この調査は、社会調査の見地からも高く評価される学問的にも非常に成果ある取り組みとなりました。
調査の結果を通じ、「民族として生きることそれは、人間らしく生きることの証明」であることが、導き出されたのです。意識調査の結果は、その後の青年会の活動に大きな裏付けとなりました。
幕張メッセでの朝青との共同応援は、朝鮮籍青年対象の「母国訪問団」へと発展し、始めての青年会主催による「母国訪問団」が2回実施されました。
その他、1993年後半期より青年会中央本部主催による同胞青年の受け皿として、「ウリ韓国語講座(ウリ講)」が開催され、後の飛躍的発展へとつながるのです。
◆第九期(1994〜1995)
光復50周年を翌年に控えた第九期郭慶則体制は、来る50周年の解放と分断の半世紀に向かい出帆しました。
まずはじめに、民団中央本部三機関長選挙において、「民団中央三機関長初心表明会及び意見交換会」を民団史上始めて4月10日に主催し、公正で団員健在の選挙風土の実現を目指す本会の姿勢を内外に示しました。
そして、前年度実施した社会学的にも高い評価を受けた「意識調査」の@受けた民族教育の程度、A民族団体への参加頻度が、民族的生きる=人間らしく生きるための不可欠の要素であるとの結果をもって前半期には全国巡回講演会も実施しました。
そして、敵地日本で韓国が総合2位という快挙を成し遂げるのに、決定的役割を果たした「広島アジア大会」での取り組み、金日成主席の死去により不発に終わりはしましたが、在日韓国・朝鮮人学生への差別・暴行事件を是正すべく「7・14全国統一緊急行動」に向けた献身性の発揮は、本会の存在を力強く内外にアピールしました。
そして、在日韓国・朝鮮人の死者129名を出した未曾有の大参事、「阪神大震災」で、緊急物資の配給、炊き出し、家屋調査などで示した機動力と組織性は、同胞体内はいわずとも広く日本社会にも反響を呼びました。
そして、翌年の本会の未来像を提示すべく位置付けられた「第3回全国在日コリア青年祝祭」では、日本人地域住民との「共に生きる時代」を高らかに謳ったのです。
本会は、この「第3回祝祭」を通じて、地域の国際化、共生社会の実現を目指したのです。
1993年から取り組んだ、この3度にわたる「祝祭」を通じ、地域との関わり、地域社会との共生を実現すべく、「地方参政権の獲得」に向けて、取り組んでいくのです。
そして後半期には、「第3回祝祭」で、提示された21世紀のキーワード、地域、共生を具現化すべく、「全国巡回みつめる会」「95幹部研修会」で、本会の中・長期的ビジョンの提示である「第4宣言文」が策定され、第17回定期中央大会で採択されたのです。
◆第十期(1996〜1997)
第17回定期中央大会で、13年ぶりに第4宣言文を採択し、崔喜燮君を首班とする第10期執行部は、「セパラム/新しい風を吹かそう!」をスローガンに出帆しました。
世代交代とともに、青年世代の組織離れが叫ばれ、「難しい時代」に本国にも日本にも偏らない、まだ確立される途中にある「在日」としてのアイデンティティーの確立が、今執行部に課せられた大きな課題です。そして、来る21世紀に向けて、より幸せで活力ある同胞社会の建設は、私たち青年世代の双肩にかかっているのとの自負をもち、地方参政権の獲得と在日同胞社会の和合に向けて、全力投球したのです。
地方参政権獲得運動では、在日同胞青年の総意を結集すべく、7月〜8月の2ヶ月間にかけて「一万人賛同署名活動」を実施した。戸別訪問を通じ同胞青年の今問題に対する意識啓蒙を図りました。
そして、後半期に入ると賛同署名活動で獲得した目標を大きく上回る12,000名分の署名を橋本首相に提出する「9.19署名簿伝達中央行動」を実施しました。また、その一週間後には全国15地方本部が19自治体に「9.26署名簿伝達統一行動」を通じ、署名活動の成果と中央行動の結果を担保に、各自治体に地方参政権付与に向けた具体的な行動の提起を促したのです。
また、10月26日の創団50周年記念中央大祝祭においては、200名の青年学生が運営スタッフとして集い、祝祭の成功に決定的な役割を担いました。ここでも青年会の行動力と献身性が高く評価されたのです。
◆第十一期(1998〜1999)
第11期は崔喜燮君が再選され、崔喜燮執行部は、「かっこいい在日、ステキな在日韓国人」をスローガンに、「地方参政権獲得運動」と「2002年韓日架け橋事業」を通じた在日韓国人の存在を地域社会にアピールする活動に取り組みました。
1998年度前半期は、対外的には地方参政権獲得運動と、「Friendship・・・友情のゴール」の普及を通じた、地域社会への在日韓国人のアピール、イメージアップを図り、体内的には組織活性化に向けた「組織活性化全国巡回キャラバン'98」を実施し、ビラ、ティッシュ、ステッカーなどを配布し、地方参政権獲得に向けた訴えと、自主応援歌の普及に努めたのです。
一方、第19回定期中央大会にて規約制定された「青年組織学院(仮称)」は、拡大事務局長会議での確認により「Korean Youth Academy(略称;KYA)」と名称が決定しました。年2回の「Korean Youth Academy」では、組織学習としてスライドを通じた在日同胞史などの学習、また組織論を通じた幹部隊列の強化に努め、技術習得として、「モニター研修会」で成果を得た外部講師を招き、電話動員・個別訪問の際の説得力を各参加者が身につけていきました。「Korean Youth Academy」参加者は各地方組織において研修の成果を発揮し、会活動の中心的役割を担うようになりました。人材育成システムは各地方組織に徐々に定着していきました。
またマルチメディア時代の到来に乗り遅れることなく、後半期から本会は「青年会ホームページ」を開設し、メーリングリストなどを通じ、本会会員に対する情報の提供と、在日同胞青年のネットワークづくりなど、具体的な成果を上げました。
1999年を迎えると地方参政権の行方は、前年の10月6日、民主党と新党平和が「永住外国人に地方参政権を付与する法律案」を衆議院に共同提出した法律案を、3月4日衆議院政治倫理・公職選挙法改正特別委員会で実質審議する運びとなりました。
本会ではこの一連の流れを地方参政権獲得の好機ととらえ、3月22日から4月25日にかけ、全国6都市において「日本列島縦断『実現しよう共生社会!』リレーキャンペーン」を実施しました。また5月11日民団が実施した「地方参政権早期立法化要望韓国民団全国代表陳情団」にも積極参与し、直接法案に携わる国会議員に地方参政権の早期付与を訴えたのです。
2002年韓日架け橋事業では、「アジアの入り口、韓国に一番近いまち」福岡にて、4年ぶりに全国行事「2000 Festa Korean Days in FUKUOKA」を開催し、全国各地方の在日同胞青年及び地域住民20,000人が訪れ、2002年ワールドカップ韓日共同開催の成功と在日韓国人の存在を広くアピールすることができました。
「Korean Days in FUKUOKA」を通じて、在日同胞青年間のネットワークの強化、在日韓国人青年の地域へのアピール及び、3年後に迫る2002年ワールドカップの成功に向けて本格始動していったのです。
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