雪景色を車窓に見ながら大関嶺の峠を越えた。やがてバスが下る道の彼方に海が姿を現し、その手前に鏡のように光る水の広がりが見えてきた。江原道江陵市の鏡浦湖。景勝地として有名なこの湖のほとりに、最近とみに注目を集める歴史スポットがある。 朝鮮中期の女流詩人、許蘭雪軒(1563〜1589年)の生家。朝鮮初のハングル小説『洪吉童伝』を書いた弟の許筠も、幼い頃ここに暮らした。 許蘭雪軒は幼くして才に秀で、8歳の頃には自由に漢詩を詠んだ。だが儒教社会では女が詩を詠むなど言語道断とされ、15歳で嫁いで以降は夫や姑の無理解に遭い疎んじられた。夫はしばしば家を空け、2人の子は幼くして病死、やがて許蘭雪軒自身も病に倒れ27年の短い生涯を閉じる。女性が才能のままに生きることの可能な時代ではなかった。 江陵のバスターミナルからタクシーに乗り、15分ほどでその地に着いた。許蘭雪軒のブロンズ像が入口で迎え、屋敷への道なりに許家の面々の詩を刻んだ石碑が並ぶ。 許蘭雪軒の詩碑には故郷の思い出を詠んだ「竹枝詩・三」が刻まれている。「家住江陵積石磯 門前流水浣羅衣 朝来閑繋木蘭棹 貪看鴛鴦相伴飛(家は江陵の石の積もる磯にあり、門前の流水で絹の衣を洗った。朝になれば長閑にも木蘭の舟をつなぎ、つがいで飛ぶ鴛鴦を羨ましく見つめたものだ)」‐。 7歳までここに暮らした許蘭雪軒は漢城(ソウル)に移るが、故郷の風景は永遠の輝きとして生き続けた。詩の後半に出るつがいの鴛鴦は、夫の不在を嘆く哀しみに裏打ちされている。女の身にのしかかる不幸が重く苦しい分、幼い日々はますます無垢の輝きに包まれたのだろう。 「去年喪愛女 今年喪愛子(去年は愛する娘を亡くし、今年は愛する息子を亡くした)」‐代表作「哭子」の冒頭だ。19歳20歳と、たてつづけにわが子を亡くした哀しみが絶唱となった。 「豈是乏容色 工鍼復工職 少小長寒門 良媒不相識(容色が劣るわけでもないのに、針仕事に追われるばかり。幼い頃から貧家に育ち、よい人に巡りあうこともなく)」‐貧しい織り子を詠んた「貧女吟」の一節。女の命が絞り出す詩には、近代を先取りする社会性とリアリズムが脈打つ。 死を前にして許蘭雪軒はそれまでに書いた詩を燃やそうとした。だが、これには弟の許筠が逆らった。朝鮮では発表の難しい姉の詩稿を中国の知己に託し、死後17年がたった1606年に、明で『蘭雪軒集』が出版された。詩集は評判を呼び、日本でも1711年に出版されている。 屋敷の奥の松林を抜けると、鏡浦湖に出た。午後の日差しに湖面がきらきらと輝き、水草が風に揺れている。幼い許蘭雪軒が毎日見ていた風景だ。女が詩を詠むという一点において、社会から否定された許蘭雪軒‐。不幸から生まれた彼女の詩は、決して卑しさに堕していない。むしろ凛として際だつものが光る。冬の湖水を渡る寒風は肌を刺すが、どこまでも清冽だ。厳しさの中、凛として生きた、生きようとした許蘭雪軒の思いがひしひしと伝わってきた。 多胡吉郎(作家) (2014.1.1 民団新聞) |