深夜の電話は、中高校時代から仲良しのTちゃんです。余りに突然で思いがけなくて、すぐには言葉が出てきません。ようわかったね、電話番号。マーちゃんのこと調べてん。 最後に会ったのは、彼女がM大看護科一回生の秋でした。大学祭に誘われたのです。高校生の頃に病にかかり看護婦(当時の呼称)を志したのです。 戦後第一陣のベビーブームに生まれた私たちは、どこへ行っても級が一つ多くて、受験も就職もホント大変でした。所謂団塊の世代なんです。二人とも同じ高校の同じ科に合格できて、ワッと抱き合き合ったものです。 交通手段は乗り合いバスのみで、片道50分程掛けて上野迄の通学です。バスは何時も立錐の余地もないほど混んでいたの。お互い重い鞄を嘆いては、持ち合ったりしたものよ。でも男子は自転車通学の子もいたっけ。 二人とも英語が得意だったなあ。その頃新任のK先生が、英語担当で独身で一層力が入ったのかも。阿山郡主催の(現伊賀市)弁論大会でK先生は、毎年彼女を代表に選びました。ちょっと嫉妬したかも。先生とお付き合いしているって大学祭で聞かされて、そうやったん。ウン納得やね。 記憶の扉がふわり開き、眼裏にビジュアルな映像が行き来します。先生とは挨拶程度で、卒業後は全く疎遠だったけれど、私が第一歌集を出版した直後に歌集を買いに来て下さったんです。独身の儘で、老いたお母様の介護に明け暮れる日々のようでした。 先生は何気なく、李正子さんと名を呼んだんです。驚いた! 学生時代は日本名だったし、先生とそんな話などしなかったから。 あれから二十数年経っていたけれど、心の片隅で感じていて下さったんですね。それからは、歌集が出る度に何冊も買って下さって。同僚の先生が教え子だよって自慢していますよ。それでね、是非講演お願いしますよ。子供達には、朝鮮通信使のエピソードを話したのでした。 そのK先生やけど、一年前に胃癌で亡くなってん。登山好きであんなに健脚やったのに。彼女は夫を二年前に肺癌で亡くしたこと。娘さんも癌の手術を受け、余命僅かなこと。彼女迄も膝の手術を控えて、心身を疲れさせ俄に電話をくれたようでした。 シンドイな人生って。年取ったんよお互い。セーラー服着てたのに。そやけど、話してるとあの頃に戻るわ。電話くれたお陰やわ。ああ、忘れるとこやった。Tちゃんの消息訊きに来てんで、K先生。亡くなる半年前かなあ。 二人は受話器を挟んで暫くは無言でした。狂おしい迄に風がうねり、台風が近いのでした。 李正子(歌人) (2011.9.14 民団新聞) |