今年は壬辰倭乱が起こってから7周甲になる年だ。7周甲とは聞きなれない言葉であるが、韓国では人間の還暦にあたる60年を1周甲と呼ぶならわしがあり、7周甲は420年に該当する。 確かに壬辰倭乱は1592年に始まっているから、2012年はピッタリ7周甲だ。これを記念して韓国では様々な行事が行われており、壬辰倭乱のときの政治指導者だった柳成龍の故郷・安東でも大々的な記念式が開催された。 そういう報道を知るにつけ、壬辰倭乱はまだ歴史に埋もれていないと実感する。 壬辰倭乱というと、救国の英雄だった李舜臣を思い浮かべる人が多いだろうが、私が残念に思っているのは、朝鮮王朝が高官同士の派閥闘争に明け暮れて国防をおろそかにしたことだ。そこを具体的に説明しよう。 壬辰倭乱の直前、豊臣秀吉が大陸制覇をもくろんでいることを知った14代王の宣祖は、日本の内情を知るために使節を京都に派遣した。その使節の正使は黄允吉で、副使は金誠一だった。 日本の情勢をうかがって戻ってきた2人は、まったく別の見解を披露した。黄允吉が「日本側は戦争の準備をしています。攻めてくる可能性が高いと思われます」と報告したのに対し、金誠一は「心配はないでしょう。攻めてくる気配はありません」と言った。 このように見解が違った場合、高い立場にいる正使の意見が採用されそうだが、実際にはそうならなかった。それは、金誠一が所属していた派閥のほうが当時の朝鮮王朝で政治的に力を持っていたことが大きな理由だった。結局、正使でありながら黄允吉の報告は無視され、朝鮮王朝は日本が攻めてくる可能性がないと勝手に判断して、国防をおろそかにしてしまった。 当時の朝鮮王朝は、200年続いた太平のぬるま湯にひたりきっていた。一方の日本は、長く続いた戦国時代がようやく終息したばかりで、兵は戦乱で鍛えられていた。その日本が大軍で攻めてきたものだから、朝鮮王朝はひとたまりもなかった。李舜臣という、世界の海軍史に名を残す傑出した将軍がいなかったら、果たしてどうなっていたことか。李舜臣が今も韓国で4代王・世宗と並ぶほどの尊敬を集めているのもよくわかる。 それにしても、なぜ金誠一は間違った報告をしたのだろうか。彼は死罪が免れないところだったが、親友の柳成龍が助命を願い出て命を救われた。 その柳成龍が金誠一に真意をただしたことがあったが、そのときに金誠一は「日本が絶対に攻めてこないとは思っていなかった。ただ、黄允吉の言葉でみんなが恐怖におののいていたので、それをやわらげたかった」と語った。 いたずらに不安をあおりたくない、ということなのだろうが、敵情視察に行った使節としては失格である。しかも、派閥闘争の影響で国論が決まってしまうとは、大被害をこうむった民は嘆いても嘆ききれないだろう。 そんなことを再び思い出してしまう壬辰倭乱の7周甲だった。 康熙奉(作家) (2012.6.27 民団新聞) |