浅草神社三神の船渡御(ふなとぎょ)は54年ぶりに、三社祭700年の節目を祝い挙行された。桜橋と両国橋を周回する略式だったとはいえ、関係者にとっては感無量であろう。 この三社祭、明治時代の神仏分離以前は観音像の「発見」にちなむ観音示現の日(3月18日)に行われる舟祭りだった。浅草神社の神輿は浅草寺本堂で一夜を過ごし、早朝に現在の浅草橋近くで舟に移され、旗や幟、太鼓や笛の囃子、さらには仮装(朝鮮通信使の衣装も)した民衆の行列とともに隅田川を遡る。現在の駒形橋たもとの駒形堂で陸に上がり、浅草寺本堂に戻る。54年前もその形式だった。 「浅草寺縁起」によれば、628年3月18日の早朝、地元漁師の浜成、竹成の檜前(ひのくま)兄弟が投網で一寸八分の黄金観音像を引き上げた。兄弟はそれを郷司の土師直中知(はじのあたいなかとも)に持参する。中知は像を自身の邸に安置し、邸を寺として自らも出家した。 現在の浅草寺は中知邸の所在地で、駒形橋は観音像が引き上げられた場所だ。駒形の名は辺りが御料牧場であったことに由来する。一寸八分の観音像は百済伝来とされる長野・善光寺の秘仏と同寸。土師氏は古墳築造や埴輪制作に従事した渡来系技術者集団の、檜前氏も奈良飛鳥地方を根拠地にした渡来人一族の姓である。飛鳥一帯は檜前郡とも呼ばれていた。 浅草辺りは当時、渡来人による東国開発の拠点だった。寺の起源が渡来仏で、御神体が「発見」者の渡来人であることを、日本を代表するいなせな祭りに思う。神輿を担ぐ掛け声も「ソイャ、ソイャ」ではなく、「四天王寺ワッソ」の語源ともなった「ワッショイ」だった。(D) (2012.3.28 民団新聞) |