東京へ向かう新幹線が雪のためにのろのろ走行となり、金曜日の夜とあって満員の車内はイライラが募っていた。フンギャ〜フォンギャと乳飲み子が泣いたのにつられたか、3歳くらいの男の子が癇癪玉に火がついたようにギャーギャー喚きだした。 安眠やほろ酔い気分の談笑を妨げられたビジネスマンたちが「あ〜アッ」といった渋い顔で、「親はいったい何をやっている」とばかりに目線をおくる。そんなとき誰かが、「ボクはえらい。おじさんたちだって泣きたいのに我慢しているんだ。堂々と泣くボクはえらい」とつぶやくと、その同僚たちから一斉に笑い声が起こった。 不思議なもので、喚き声がぴたっと止んだ。車内の空気が変わったことを、何かの異変の前触れと感じ取ったのか。「ボクって、笑われてるの!?」。そう思ったのかも。屈辱を受けても晴らす術のない子どもは、屈辱に敏感だというではないか。 それがふつうのボクたちというものだ。癇癪を起こしてしまった場合でも、とっさに相手や周囲の空気を読み、波紋の行方や効果のほどを計算できる。泣き喚いてしまった手前、引っ込みがつかなくなって困った経験が授けた知恵だ。 だが、親の教育が悪いとその限りではない。「ガキは迷惑かけてナンボやで」(関西弁でスンマセン)などと育てられ、駄々をこねるたびに親やその取り巻きがちやほやする。そのうち、隣の親戚までが宥めてくれるし、小遣いまでもらえるようになった。だから、いい齢になってもゴネ得狙いが直らない。 人間は生きたようにしか死ねないという。それでも最後くらい、ぴたっとなき止んだ子どもの知恵くらい見せていい。(E) (2011.2.9 民団新聞) |