ソウルを発った高速バスは、2時間たらずで百済の古都、忠清南道の公州に着いた。百済はもともとソウルの漢江南岸に都を置いていたが、北の高句麗から圧迫を受け、475年に都を南のこの地に移した。当時は熊津と呼ばれ、538年、さらに南の泗 (扶余)に遷都するまでの間、百済の栄華を担った。 公州への旅ではぜひとも訪ねたい所があった。宋山里古墳群の武寧王陵‐。1971年に発見され、出土した墓誌石から武寧王の墓と確認されたが、王の棺が日本固有の高野槇でつくられていたというので、古代史のロマンに駆られるところとなった。 武寧王(462〜523年)は百済第25代の王で、高句麗に押されていた百済を立て直した名君であった。諱を「斯麻」といい、これは母が倭国に向かう途次、筑紫の各羅嶋(加唐島)で生んだことからつけられた名だという。『日本書紀』はその名を「嶋」と伝える。生まれたのが日本、没後に納められた棺も日本産の木でできていたのだから、日本(倭)との縁の深かった人物といえよう。 宋山里古墳群の一帯は公園化され、ラクダの背中のようにぽこぽこと円墳が並ぶ。いずれも熊津時代の王と王族たちの墓とされるが、誰の墓か明らかなのは武寧王陵だけだ。唯一盗掘を免れていたので、4600点を超す貴重な遺物が出土した。 古墳内部は今では非公開だが、墳墓のすぐ近くに模型展示館がつくられ、玄室の様子が発見時のままに再現されている。発見当時、王棺は長い歳月の間に殆どが朽ち果てたものの、腐蝕を免れた一部が隅に横たわっていた。木片を調査した結果、日本にしか自生しない高野槇であると判明したのだ。高野槇は丈夫で腐りにくく水に強いことから、木棺材として最適だという。 現地に来て新たにわかったことがある。王の墓所には鎮墓獣(墓を護る想像上の動物)や陶磁器など、中国南朝(梁)のものもいろいろと飾られていたのだ。煉瓦で囲まれた墓の形態も南朝の 築墳の影響を強く受けているという。東は日本、西は中国南朝と、百済が国際的な関係を結びながら国を維持していた証であろう。 宋山里古墳群からほど近い国立公州博物館を訪ねた。ここでは武寧王陵の貴重な出土品の実物を目にすることができる。高野槇の棺も朽ち残った木片が展示されているが、まず目を引くのは冠飾や耳飾りなど金製装飾品の輝きである。委細に見れば金銅飾履や青銅神獣鏡など、日本の古墳から出土したものとよく似ている。百済を経由し中国(南朝)から日本(倭)に至る壮大な文明の流れが武寧王の墓に集約されているのだ。 日本語の漢字の音には、呉音と呼ばれる発音体系がある。唐から漢音が伝わる以前、百済を経て中国南朝から伝来したとされる音だ。 例えば「日」は漢音なら「ジツ」だが呉音なら「ニチ」だ。武寧王陵の遺物が語る文明の版図の記憶を、1500年もの歳月を経て、私たちは今も日常的に舌の上に反復している。そう思うと、長い眠りから覚めた古代の品々に懐かしさに似た熱い気持ちが湧いてきた。 多胡吉郎(作家) (2014.2.26 民団新聞) |