青葡萄 李陸史 わがふる里の七月は/葡萄の房の撓む季節/ふる里の伝説は一粒ごとに実を結んで/彼方の空の夢を映す/空の下の青海原は胸を開いて/白い帆船が滑りこむと/待ち人は帆船の旅に疲れた身に/青袍をまとって訪れるという/待ち人を迎え葡萄を摘めば/両手がしとど濡れるのも構わない/幼い者よ皆々の食卓に銀の皿/白い苧の白布を備えてごらん (注=苧は모시) 一面の青海原に青袍、青葡萄。そして白い帆船に白いナプキンが、とても物閑かです。風の透明な戦ぎさえ感じられる、風景の優しさ美しさ。 でも唯、静逸で美しいばかりの風景なのでしょうか。故郷や愛する人との再会を切なく待ち望む眼裡には、秘められたものがあるはずですね。 彼の父君は、千元紙幣の肖像である、韓国儒学の父、李退渓の13代目孫子です。彼もまた、時代の両班の末裔なのです。 日本には1924年に留学しています。この折に欧州の詩人達と交流します。帰国後は抗日結社に加盟し、次に北京へ向かいます。 上海では魯迅と出会い、やがて南京に開校した朝鮮軍事政治学校の一期生となります。こうした経緯から、髣髴として視えてくるものは、時代の嵐の中を駆け抜けてきた心模様です。 風景に託した彼の思いの襞を開いてみます。私生活では2歳の長男と父、母と長兄を亡くします。1943年、母と兄の初祭祀に帰国して検挙され、駐北京日本総領事館警察に押送、拘禁されました。縛られた手を差し伸べ、3歳の娘の稚い指を固く握りしめて。 1944年遂に北京の獄中で虐殺されるのです。逮捕は実に17回に及んだとか。詩人尹東柱に先立つこと一年、待ち望んだ祖国解放は一年後でした。こうして垂直な雄性の命は断たれました。大いなる思惟を抱く40歳の可能性は無残に毀されました。 本名は李源三。筆名이육사は囚人番号の264から名付けたものです。彼の拠は何より詩作だったのでした。 出身地の安東は、作家立原正秋<金胤圭>の故郷でもありますね。ここに海はありません。そう、彼の言う海とは原文の고장、民族そのものでしょう。帆船で訪れる待ち人とは明日の祖国、고장なのです。 解放の日を夢見て、賑やかな祝宴やお喋りなど待っていたはずなのに。詩は何処かの獄中で記したものかも知れません。暗喩で綴られた魂の深みへ思わず涙を零しました。 詩人李陸史の凄まじい迄の息の緒が、近代史の波間に揺れる度に私も揺れます。ハングルで紐解けば、韻律の漣は鎮魂歌となって耳に点ります。いつまでも。 李正子(歌人) (2011.8.15 民団新聞) |