四方を山に囲まれてすり鉢の底のような処に伊賀市(旧上野市)はあります。ここから東京は遠い未知の首都ですが、意外な縁が隠されています。 本能寺の変の折、徳川家康は堺の町から三河へ帰るのに手勢30人という心細さでした。伊賀は信長に焼き討ちされ、同盟を結んでいた家康には敵陣の地です。そこで隠密に御斎峠を越えるのです。 御斎峠は甲賀との境にある青山幽谷の天然の要害です。この難所を無事三河へ帰還させたのが志能備、服部半蔵を頭領とする伊賀忍者100人でした。世に言う家康の伊賀越です。 随分前に峠を車で越えたのですが、途轍もない葛籠折りが続く険しさに、車酔いしました。小さな碑の前では闇を突き逃げ延びる一行の形相を思い浮かべてみます。伊賀は戦国大名をもたない特異な地です。 信長に殲滅された忍者たちは風と共に散り各地で大名に仕えます。故に彼らに様々な名称がつけられました。家康は彼らを集結させて諜報活動に任じます。伊賀上野城城主、藤堂高虎は13の城を手がけた築城の名人、今ならカリスマ建築士かしら。 家康から大阪城攻略の命を受け近代的な防衛都市を築きます。石垣が西方に高い所以です。失敗すれば、共に籠城討ち死にする覚悟でした。 城には忍びの井戸に抜け道が掘られます。高虎は関ヶ原の戦で勝利の端緒を作り、次は江戸城築城の命を受けます。 東京には上野、向島、青山、赤坂など伊賀市の町名が残っています。半蔵門は、西門の警護に半蔵を頭に伊賀同心与力の屋敷があった処です。新宿大久保百人町でも100人の忍者鉄砲隊が警護に当たります。この時、柘植町から躑躅苗を持ちこんだらしく、今に躑躅祭りになっています。 伊賀には服部姓が多くこれは機織りの意味です。服部町は染色用の植物が豊富で古代朝鮮から織物職人が渡来しました。服部氏族からは能の創座者、名張の観阿弥に嫁いだ女人がおり、息子が世阿弥です。 観阿弥の母は楠木正成と姉弟とする、服部氏族上嶋旧家文書が発見されました。事実なら観阿弥は甥になり、伊賀流に大楠公の血筋が混じります。能は猿楽より始まり、旅の危険性から情報活動もこなす一座です。 忍術変身術には猿楽師があります。不思議、繋がっている? 町の世阿弥公園には末裔播州永富の系図である元鹿島建設会長から女人像が寄贈されています。 でも立ち入り禁止! 残念! 水破突破軒猿伺見黒脛巾忍者の語彙ににおうは密室 李正子(歌人) ■□ プロフィール 李正子(イ・ジョンジャ) 1947年、三重県伊賀市(旧上野市)生まれ。中学校時代に短歌と出会い、20歳頃から作歌を始める。84年、歌集『鳳仙花のうた』(雁書館、絶版)刊行。91年、歌集『ナグネタリョン―永遠の恋人』(河出書房新社)刊行。10年、歌集『沙果、林檎そして』(影書房)刊行。在日韓国人歌人として初めて、作品が日本の中学高校の教科書に採用される。歌集5冊、エッセイ集など刊行。短歌結社「未来」所属。Tanka college「マダン」通信講座主宰ほか。 (2011.6.8 民団新聞) |