韓国で9月に公開された映画「光海、王になった男」が大ヒットして、観客動員数で1千万人を超えた。興行が良かったことを祝して、10月13日にソウルでファンへの感謝イベントが開催された。メーンの出演陣が映画と同じ衣装で舞台に上がり、観客たちから盛んに拍手を浴びていた。主演のイ・ビョンホンも感無量だったことだろう。 同映画のチュ・チャンミン監督は、「映画がここまで成功した理由は?」と尋ねられても、「正直に言ってわからない」と首をかしげるだけ。制作陣も驚くしかなかったようだが、大統領選挙が近いということも意外と映画成功の理由の一つになっていたのではないだろうか。過去にもそんな例があるのだ。 実は、1997年に韓国で放送されていた時代劇「龍の涙」も、暮れの大統領選挙が近づくと、視聴率が急上昇した。そのときの大統領選挙は野党勢力が合従連衡したが、朝鮮王朝の創設期を舞台にした「龍の涙」にも似たような政治的動きが描かれていて、同ドラマの注目度が増したのである。 それから15年、今度の大統領選挙でも野党勢力の結集が焦点の一つになっているが、国民の間で最高権力者をめぐる争いに関心が集まっている最中に「光海、王になった男」が公開され、それが観客増につながった面も否定できないだろう。監督ですら成功の理由がわからないのだから、我々が邪推しても始まらないのだが……。 一つ言えるのは「光海、王になった男」の大ヒットによって、朝鮮王朝15代王・光海君への関心が飛躍的に高まったということだ。彼についてはこの連載の第10回と第12回で触れているが、今回は彼が王になる過程について説明したい。 光海君は14代王・宣祖の次男で、長男は臨海君だった。2人とも側室から生まれた庶子の王子である。 朝鮮王朝では長男が王位を継ぐのが原則ではあったが、政治的な資質に関しては光海君のほうがまさっていた。しかも臨海君は素行の悪さが問題になっていて、次男だったが世子(王の後継者)には光海君が指名された。 しかし、宣祖は正室との間に嫡男を得た。それが永昌大君で、光海君より30歳くらい下の異母弟だった。1608年、宣祖が世を去ったのち、世子の光海君が王位を継承したが、それでも彼は安心できなかった。いつ、臨海君や永昌大君の一派に寝首をかかれるかわからなかったのだ。それがよほどの恐怖だったのか、光海君は安眠を妨げる相手を次々に排斥しようとした。 その際には政治的な陰謀もいとわなかった。その結果、臨海君は1609年に死罪となり、永昌大君は1614年に殺害された。こうして光海君は「骨肉の争い」を制したわけだが、多くの怨みを買い、1623年にクーデターで王宮を追われた。 「光海、王になった男」では、毒殺を極度に警戒する光海君の姿が描かれている。映画を見ただけでは背景がわからないかもしれないが、彼が毒殺されるのを恐れたのは、相応の理由があったのだ。 康煕奉(作家) (2012.10.24 民団新聞) |