思いがけない包みでした。封を開けると、大切そうに仕舞われた二つの封筒が現れました。一つには手紙、もう一つには花の種が。暫し思いを巡らし、ああと声を漏らします。 送り主は当時、A新聞社論説委員Sさんからです。A新聞日曜版「世界の花」シリーズで、韓国の花を取材するので、韓国の花を教えて欲しいとの手紙を頂いたのでした。第一歌集『鳳仙花のうた』を1面コラムで、評価して頂いたご縁があったのです。 迷うことなく、鳳仙花の曲が生まれた歴史背景を綴りました。韓国近代音楽の先駆者であり、バイオリニストでもある作曲家、洪蘭坡さんのこと。3・1運動犠牲者の鎮魂に寄せて、日比谷公会堂でソプラノ歌手、金天愛さんが白い喪服姿で絶唱したことも。 彼は早速、韓国へ取材に。そして、帰国後に頂いたのがこの手紙なのです。 「洪蘭坡さんの生まれたところに『生家』が再現され、文化財として大切にされているのを見て来ました。その家の垣根の前に、たくさんの鳳仙花が咲いていました。タネを少し持ってきました。(中略)韓国では人びとの情に触れ、楽しい旅でした。こんなにお世話になっていいのかなと思うほど、会う方々に親切にして頂きました」(以下略) 更に彼は、ロサンゼルスへ飛び立ちます。韓国で金天愛さんが、お元気との情報を得たのです。 彼女は現役の歌手として、ロスの教会で活動していました。思いがけなくも、遠い日本からの来客を喜び、心より歓迎します。もう一度、日比谷公会堂で歌いたい、そう言って願いを込めて「鳳仙花」を熱唱してくださったんです。 後日、彼は録音テープと花の種を携えて遙々、私を訪ねて下さいました。Sさんは、想像とは遙かに違うんです。長身で日に焼けて、スリムなGパン姿でした。登山家か探検家に見えました。 宝物を扱うように、テープを聴かせて下さいます。彼女は歴史上でしか知り得ない人。なのに、ロスから届けられた歌声を聞けるなんて。これは夢なの? もう胸一杯で、何時しか、涙を零していました。20代でこの曲を知り、読めないハングルを一字ずつ辿りながら、意味を知って泣いた日々がありました。若かったのでしょうか。いいえ、静謐な魂の美に揺すぶられる悲しみが、秘められていたからです。 第一歌集に花の名を頂いたのは、短歌人生のはなむけに寄せ、自らに贈ったものでした。 4月がくれば、鳳仙花の種の蒔き時です。夢のまにま耳殻にそよぐ、ソプラノとあの日の涙を添えて蒔きましょう。 おわり 李正子(歌人) (2012.3.28 民団新聞) |