| | | 多胡吉郎(たご・きちろう)。作家。1956年東京生まれ。NHKで長くディレクターをつとめ、韓国とは30年を超す親交をもつ。韓国関係の著書に「韓(から)の国の家族」(淡交社)、「わたしの歌を、あなたに 柳兼子、絶唱の朝鮮」(河出書房新社)、「物語のように読む朝鮮王朝五百年」(角川書店)、「すらすら読める 朝鮮王朝禁じられた愛」(講談社)などがある。
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韓国は歴史の深い国だ。韓流ドラマの影響もあって、歴史に興味をもつ人も増えた。そんな興味を胸に、韓国を旅しよう。 旅の起点は朝鮮王朝の都だったソウル。高層ビルが林立する中、この町にはいくつもの王宮が残存する。その代表格が景福宮。もとは朝鮮王朝の開祖・李成桂が1395年に建てた正宮で、北岳山から南山に至る風水ラインに沿った都のヘソになっている。多くの門や殿閣が甍屋根を幾重にも波打たせる姿は、王朝の威厳や雅を今に伝え、訪れる者をいにしえの世界に誘う。 私が今日向かうのは、ソウルの王宮の中でも景福宮にしかないユニークな建物の慶会楼。玉座のある勤政殿から左へそれ、北側にしばらく進んだ先にある。 途中から団体客と一緒になったが、凹凸に富む中国語の響きが耳だつ。実はこの場所では昔から馴染み深い音でもある。慶会楼は外国使節の応接や大宴会に使われた建物だったのだ。48本の石柱の上に、韓国では最大の木造建築という巨大な楼閣を戴く。荘厳にして端麗、周囲の池水に殿閣が映るさまは、まさに一幅の絵だ。 慶会楼には、対照的な2人の王の記憶が刻まれている。一人は朝鮮王朝第10代王の燕山君(在位1494〜1506)。全国から美女を集め、ここで連日のように大宴会を催した。そうした女たちは「興清」などの名で呼ばれたが、「フンチョンコリダ(浮かれ騒ぐ)」という韓国語の起源はここにあるという。 色とりどりのチマ・チョゴリに身を包んだ女たちが慶会楼に舞い、その姿が水面(みなも)に映えるさまは華麗を極めたろうが、座の中心を占める王の心は闇に閉ざされていた。先王成宗から「百年は秘すべし」と遺言された廃妃尹氏(燕山君の生母)の死の真相(宮廷政治の陰謀の犠牲となり賜死)を知って以来、燕山君の心は千々に乱れ、悲痛にまかせて暴虐を尽くし、大宴会に現を抜かしたのだった。 慶会楼と縁の深いもう一人の王は、燕山君がクーデターで追放され、代わって玉座についた中宗(在位1506〜1544)である。中宗には王子時代に結婚した妻の慎氏がいたが、父が燕山君政権の実力者で、叔母が燕山君の妃であったため、クーデターの首謀者たちから嫌われ、王妃の座について8日目に廃位とされた。 宮廷を追われた慎氏は仁王山の麓の屋敷に身を寄せたが、中宗は無理矢理離された元妻が恋しく、慶会楼の2階に上っては仁王山を眺めた。その噂を耳にした慎氏は、夫の愛した桃色のチマを仁王山の岩の上に拡げ、王の愛に応えた。 中宗もチマを認めて涙し、そっと慶会楼に通いつめた。だが愛の交信はやがて臣下たちに知られ、慎氏は居所を移され、愛は強引に断たれてしまう。仁王山にチマが飾られることはなくなったが、人々はその岩をチマ岩と名づけ、純愛を長く語り継いだという。 こうして見ると、賑やかな群舞の中の燕山君と一人たたずむ中宗と、一見対照的ながら、ともに人としての哀しみを胸に慶会楼を訪ねたことがわかる。歴史を知ることで風景は奥深さを増す。水面に揺れる慶会楼が涙に濡れているように見えた。 多胡吉郎(作家) (2013.7.3 民団新聞) |