電話は短歌教室の会場をお借りしている公民館と、二つの大学のM先生、Y先生からです。先生方は中旬に私を訪ねたいと言います。多文化共生研究者で、60年代の在日の足跡を訪ねているんです。私が思春期から、青春期のど真ん中の時代ですね。特にお話はありませんが。歌集を読みましたよ。ぜひ聞かせて下さい。M先生は、父と闇市の話をご存じでした。 実は、お正月に息子と天神様に出かけたばかりです。2年前、神社は火災で焼失し、再建中で変色した賽銭箱だけが残っています。神社の傍には天神商店街があります。ここは、父が戦後に在日の失業対策の為に築いた、闇市の現在の姿です。 そう知ったのは、地元の小学校の先生が何度も父を訪ねて、証言を聞き取りに来たからです。私も随分前から聞き取ろうとしたのですが、頑固に口を閉ざし続けます。それが何故か、急に話すと言うので同席しました。 19歳で渡日し、下関港湾作業員や大分県の梨園で無給で働いたこと。そして、飯場で働くうちに賃金闘争活動をしたこと。日本人よりとても安かったんですね。 弁が立ったので、日本人の親方に勝つと、安賃金で働く同胞たちの飯場に次々、請われました。そこでも勝ち続けて、指名手配されます。そして夜の米原駅で、見張りの官憲に逮捕、投獄されました。父はしかし、日本の警察は優しかったとしか言いません。信じてませんけれどね。 戦時中は上野市で、軍用飛行場の建設現場の副監督でした。正監督は日本人というのが規則で、解放後、名古屋でリンチされ亡くなったとか。闇市の出店は在日が殆どで、出店料無しに。やがて銀座通りにパチンコ屋ができ、家を新築する人も現れました。 60年代はまだ同胞集落で寄り合い、民団事務所には活気があり、冠婚葬祭でも連帯していました。商店街となってから日本人が店を構え、同胞の店は僅かになります。高校生の頃は、下校時に母と仲良しの洋品屋さんで、よく待ち合わせてましたが。父の死は証言の半年後で、末期癌でした。癌を隠していたんです。 同胞の葬儀では必ず撥 祭(パリンチェ)を唱え、出棺を見送っていた父に、既に唱えてくれる誰もいません。必死で天王寺の統国寺に撥 祭を教わり、何とか出棺を送りました。 天神商店街、見に行きますよ。先生は受話器から応えます。思春期から、古里はあるのかしら? そんな思いに彷徨い続けていました。この世に私の古里があるのなら、それは父の生き様と母の暮らし向きの内にあります。二人の娘であることが、私には唯一の古里でなのでしょう。 李正子(歌人) (2012.1.25 民団新聞) |