48年9月、韓国政府が公式認定 権力分権と民主的運営を堅持
民団創団と組織・規約形成の背景
民団は、一般的な団体とは一線を画した組織体系・規約を創団以来、整備、構築してきた。
1919年の東京での2・8独立宣言と祖国の3・1独立運動に掲げられた自由・平和と民族自存の精神は、日帝圧政下にあっても在日同胞の中に脈々と継承されていた。
日本帝国敗戦の1945年10月、在日同胞らは「在日朝鮮人連盟(朝連)」を結成した。しかし第二次世界大戦の終結と同時にソビエト連邦の共産主義国家と欧米の自由主義国家の東西対立が始まり、結成直後の「朝連」は、暴力革命を標榜する共産主義一派に独占支配されてしまう。
朝連結成時の「綱領」は、「新朝鮮建設」「世界平和」「在日同胞の生活安定」「日本国民との互譲友誼」など現在の民団「綱領」に近いものだ。しかしわずか4ヵ月後の臨時大会で「綱領」が全面改定される。
各項に「民族戦線」「人民戦線」の文字が加えられ、活動方針には「民族統一戦線を妨害錯乱する反逆的団体及び個人の徹底排撃」が打ち出される。
朝連が、一夜にして当時の過激な共産主義者らにより支配されたことに対し、自由民主主義と平和を求める在日同胞は、出獄した民族・人権運動の象徴的存在だった朴烈氏を中心にし、翌1946年10月に「在日本朝鮮居留民団(現民団)」を東京で創団した。
当時、祖国は38度線を境に分断され、北はソビエト軍、南は米国軍が統治していた。
現在の大韓民国政府が成立するのは民団創団から2年後の1948年8月15日であり、翌月の9月、民団は大韓民国政府から公式認定され、名称も「在日本大韓民国居留民団」に改称した。
一方、「朝連」は、「暴力主義的活動」団体として1949年にGHQ(連合国軍最高総司令部)により解散が命じられ、朝連の財産は没収され幹部は公職追放となる。朝連解散後、後継団体の「民戦」「祖国防衛隊」などを経て1955年に「在日本朝鮮人総聯合会(朝総連)」が結成されたが、当時から現在も朝連と朝総連は中央集権の一機関制度である。
自由民主主義に基づく民団組織・規約
暗黒の植民地時代、我が同胞にとって自由と民主主義は、理想ではあっても、まるで夢物語のような現実的にはかけ離れたものであった。一方で日帝支配解放直後、祖国は38度線に分断され、韓国政府そのものが成立していなかった。
民団は、1946年10月の創団時は団長、議長の二機関でスタートし、翌年の5月には、議決、執行、監察の三機関制度(三権分立)が確立し、以来、民団は、この厳格な三権分立の三機関制度、中央、地方の権力分立、団員主権を基本としてきた。これは結成間もない「朝連」組織が、いとも簡単に共産主義一派に乗っ取られ支配されしまったという制度的問題を目の当たりにしたこともあるが、またそれ以前に2・8独立宣言をはじめとする日帝時代の権力の専横的支配に抗い闘い続けた在日同胞には、自由と人権、自主独立を求める運動と精神が受け継がれてきたからということも紛れもない事実だ。
民団の団員主権、三権分立(三機関)、中央と地方の分権などの組織制度は、民間の一般的な団体、法人組織とは一線を画した特異的なものと言っても過言ではない。これは近代の自由民主主義国家体制・機構を参考にしたと考えられる。
本団最高議決(決定)機関とは
民団の最高議決(決定)機関は、中央大会と定められ、その構成員は、中央委員、代議員だ。議長と副議長だけが議決機関ではない。それは、国会の正副議長は議員の代表だが、正副議長を国会と言わないのと同じだ。
三機関の執行機関とは、中央大会及び中央委員会で決定された事項と一般団務を「執行」する機関であり、団長、副団長をはじめとする執行委員会で構成され、中央委員会に活動・決算の報告および方針・予算案は承認をされなければならない。また監察機関は、監察委員長と監察委員によって構成され、中央委員会に報告の承認(同意)を得なければならない。
これにより三権分立の三機関制度では、最高議決機関として中央大会と中央委員会がある。執行機関が、中央大会、中央委員会の上位に立ち、同大会・委員会の承認決議のない事項を執行することは当然できない。また民団最高議決機関の構成員である中央委員、代議員の大多数は、地方本部(支部)の最高議決機関で選出する。つまり中央委員、代議員は、全団員の代表であることが、民団の民主主義を示す最も根本的なものだ。民団は、こうした制度をもって権力の分権を図り民主的運営を堅持してきた。