掲載日 : [19-09-04] 照会数 : 13498
虐殺の地を歩き犠牲者追悼 横浜市内フィールドワーク
[ 「出かせぎの朝鮮人労働者」が虐殺された中村川岸を案内する後藤周さん(右) ]
[ 名もなき一市民が建立した「関東大震災殉難朝鮮人慰霊の碑」(久保山墓地) ]
関東大震災時に多数の虐殺事件が起きた横浜市内を歩きながら犠牲者を追悼するフィールドワークが1日、行われた。市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」の呼びかけに応え、40人を超える市民が参加した。
一行はまず、久保山墓地に建つ「関東大震災殉難朝鮮人慰霊の碑」の前に立ち、手を合わせた。この碑は電信柱に荒縄で後ろ手に縛られた朝鮮人の死体を目撃した石橋大司さんが私財を投じて74年に建てた。裏面には「少年の日に目撃した一市民建之」とだけ記している。
案内に立った後藤周さんは「小学校2年生の時に目撃し、ずっと心を痛めて51年後に建立した。虐殺の事実を忘れてはならないという強いメッセージを
持った碑だ。市の横死者合葬墓の墓域にこ虐殺された人々の慰霊碑が加わり、関東大震災の犠牲者追悼の場が完成した」と説明した。
この後、大震災で全焼失した南区の横浜遊郭跡を経由して「虐殺の地」とされる三吉橋に向かった。三吉橋から土方橋に至る中村川岸には木賃宿といわれる労働者の簡易宿泊所が集中し、「でかせぎの朝鮮人労働者」が多く暮らしていた。
虐殺の模様は当時の子どもたちが震災の体験を書き記した作文に詳しく描かれている。驚くべきことは大人の言葉を信じ、「朝鮮人は怖い」と、他民族を憎む感性が骨肉化しいったことだ。その意識は一度も断ち切ることなく今日に至っている。なかには、「いくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじよーと思ってもしんじる事はできなかった」と書いた子どももいたのが救いといえる。
関東大震災の流言・虐殺にふれた横浜市教委の副読本『わかるヨコハマ(横浜の歴史)』2012年版は虐殺否定論に立つ市議の主張を入れて改訂され、最終的には廃刊に追い込まれた。新副読本(17年3月発行)に流言・虐殺の詳しい記述がなく、後藤さんは「当時のデマがあたかも事実であったかのような印象を与えかねない」と心配している。