民団は在日同胞会社の和合繁栄に寄与します。
「思想的に傾かない大衆組織を」と考えた青年らは、同年11月16日、東京に3,000名を集め、「朝鮮建国促進青年同盟(建青)」を結成、さらに翌年1月20日には「新朝鮮建設同盟(建同)」を結成しました。そしてこの2団体が主軸となり20余の民主勢力を糾合、46年10月3日、日比谷公会堂に全国から約2000名を集めて「在日本朝鮮居留民団」(以下、民団)を結成しました。
在日本朝鮮居留民団が正式に結成されたことで、朝連の左傾化に不満をもつ全国の民族系人士たちは各地方で次々に民団地方本部・支部を結成し、全国規模の民団組織は1~2年の間に着々と拡大していきました。
東京都内でも建青組織を中心に地域ごとに民団組織が結成されていきました。1946年12月26日に豊島区を中心とした板橋、練馬の3区連合支部が結成され、翌47年2月3日には文京区を中心に台東、北、墨田、江東、江戸川による6区連合支部が結成、さらに2月16日には中野区を中心とした新宿、世田谷、目黒、渋谷の5区連合支部が結成されました。
東京地域の各連合支部の陣容が構築され、東京本部結成の機運が高まっていきました。47年2月から支部代表らは数次にわたり協議を重ね、7月16日、文京の小石川後楽園にある「涵徳亭」で開かれた代表者会議で「在日本朝鮮居留民団東京本部」結成準備委員会の発足を満場一致で決議し、委員長に徐忠臣、副委員長に卞榮宇など15名が同委員会役員に就任しました。
1947年8月9日、新宿若松町にあった民団中央本部講堂に支部役員同胞ら約200名が参集し、民団東京本部結成大会が開催されました。同大会で初代団長に卞榮宇氏を選出し、「在日本朝鮮居留民団東京本部」が正式に発足しました。
48年8月15日、韓国政府が樹立されると民団は同年9月、在日同胞の公認団体として正式に韓国政府から認められ、大韓民国国号制定に伴い、「在日本大韓民国居留民団」に改称しました。
※94年の第44回定期中央大会で名称を「在日本大韓民国居留民団」から「居留」の二文字を削除するとともに、日本定住を鮮明に打ち出し、地方参政権獲得を運動の柱に掲げ「在日本大韓民国民団」に改称しました。