掲載日 : [2020-11-11] 照会数 : 10649
【投稿】読者ミスリードのずさんな韓国関係本づくり
辺真一『もしも南北統一したら』(ワニブックス、2020年6月)
著者、そして編集者は猛省を
「朝鮮半島情勢の第一人者」(同書キャッチコピー)にしては、あまりにもずさんな韓国関係本づくりといわざるを得ない。
たとえば、①「日韓条約を交わした当事者である朴正熙大統領」「朴正熙は選挙で国民に選ばれた大統領ではありませんでした。ここも一つの重要な点になります」(26ページ)→事実は、1963年10月15日の第5代大統領選挙で選出されている。ちなみに、日韓条約の調印は65年6月である。
②「このとき、デモで政権を倒して勢いに乗った韓国の学生たちは、北朝鮮の学生委員会と連携をとって、板門店で南北学生会談を開いたんです。そのときのスローガンが『行こう!北へ! 来たれ! 南へ! 会おう板門店で!』というもので、当時の報道によると、板門店へ向かった韓国の学生は10万人を超えたといいます」(27ページ)→事実は、南北学生会談は開かれていない。韓国の学生たちが提唱していた1961年5月20日の板門店南北学生会談は、直前の5月16日の軍事クーデターによって不発に。
③「『クーデターで政権を奪取した朴正熙は国民に選ばれた大統領ではない』ということを先ほど述べましたが、そういった批判をかわして政権を維持するために、朴大統領も一度、直接選挙に打って出たことがあります。1971年のことで、相手は野党の金大中氏でした」(29~30ページ)→事実は、朴大統領は、前述(①)の63年10月の第5代大統領選挙に続く67年5月の第6代大統領選挙も直接選挙で再選されていた。したがって71年4月の第7代大統領選挙は朴大統領にとって初めての直接選挙ではなく、3度目の直接選挙だった。
④「このとき、金日成は、『高麗民主連邦共和国』という連邦制国家の創設を韓国側に提唱しています」(56ページ)→事実は、このとき(1960年8月)に提唱したのは「南北連邦」統一案だった。そこでは、南北統一総選挙の実施が優先されており、「連邦制」はあくまでも完全統一にいたる過渡的な代案であった。「高麗民主連邦共和国」創設方案は、その20年後の80年10月の第6回朝鮮労働党大会における提案である。しかも、同創設方案では「連邦共和国」は過渡的なものではなく、最終の統一国家とされている。
⑤「3回にわたって『連合統一案』が提案されています」(56ページ)→事実は、「連邦統一案」。ちなみに「連合統一案」は韓国側が主張しているもの。そもそも「連合統一案」と「連邦統一案」は、似て非なるものだ。韓国では盧泰愚政府(88年~93年)以来、「統一のプロセスとして南北連合」構想が公論として維持されている。南北両政府がそれぞれ軍事権と外交権を持ち、ゆるやかな「連合」体制の下で交流協力を進め、南北両社会の等質化をめざし、最終的には民主的な南北統一選挙による民主的統一国家の形成を目指している(「民族共同体統一方案」)。
これに対して北朝鮮が現在主張している「連邦制統一方案」は、「南北連邦制」を過渡的な段階とみなすのではなく、異質な南北の2体制(南=民主主義体制、北=金日成王朝制)のままをもって統一の最終段階・完了とする。したがって「統一憲法・統一総選挙」の項目がない。現在の金日成王朝体制の存続を正当化しようとするものだ。統一総選挙を回避して王朝体制の維持を図り、平和・民主・自主の3原則に基づく単一国家の形成を忌避する半面、対南攪乱・侵略(「内戦」視)による韓国合併・吸収統一の余地を残そうとするものだ。
北朝鮮において憲法よりも上位にある「朝鮮労働党規約」は、その「前文」で「当面の目的は共和国北半部で社会主義強盛大国を建設し、全国的な範囲で民族解放、民主主義革命を遂行するところにあり、最終的には全社会を金日成・金正日主義化するところにある」と明記している。北朝鮮は、2018年4月の金正恩・文在寅「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」発表後も「わが民族=金日成民族」と公言している。
⑥「この三度目の提案は、1980年10月の第6回朝鮮労働党大会における『高麗連邦制案』にもとづくもので」(56ページ)→事実は、④で指摘したように「高麗民主連邦共和国案」である。
⑦「たとえば、2007年に盧武鉉政権下で史上初の南北会談が開かれましたが」(63ページ)→「史上初の南北会談」とは何を指しているのか不明である。「史上初の南北首脳会談」は金大中政権下の2000年6月に開かれている。2007年(10月)に開かれたのは第2回南北首脳会談。
⑧「朝鮮戦争で38度線が引かれ、金剛山が北朝鮮のほうにいってしまい、行くことができなくなってしまって悲しんだ韓国人がたくさんいたといいます」(66ページ)→事実は、38度線は朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)以前に引かれた。1945年8月の日本の敗戦に伴い米ソ両国の合意に基づき引かれた分割占領ラインで、北緯38度線を境に北はソ連軍が、南は米軍が占領し、それぞれ軍政を敷いた。
その後48年8月に38度線の南では韓国(大韓民国)が成立、同年9月には北側に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が成立。北朝鮮による全面奇襲南侵による朝鮮戦争が膠着状態のまま休戦に至ったため、軍事境界線は西海岸では北朝鮮が38度線の南に食い込み、東海岸では韓国が北に食い込む形の線となった。金剛山は、もともと38度線の北側にあり、しかも東海岸側軍事境界線の北側に位置する。朝鮮戦争の結果、北側に移ったのではない。
同じ著者による『大統領を殺す国 韓国』(角川oneテーマ21、2014年3月)にも、事実に反する記述が散見された。たとえば――。
「一九五三年に朝鮮戦争が休戦すると、北緯三八度線を越えて国民が行き来することが禁じられた」「それまでは、北と南は別々の国家だったが、行き来は自由だった」(27ページ)→1946年5月に米軍政庁が民間人の南北無許可越境(自由往来)を禁止しており、48年の南北両政府樹立後も双方が自由往来を禁じていた。朝鮮戦争の結果、自由往来が禁じられたのではない。
「その頃(李承晩政権末期)、こんなスローガンがあった。『行こう、ピョンヤンへ!
来たれ、ソウルに!』『行こう、板門店へ! 来たれ、板門店に!』 祖国の統一を求める学生たちの合言葉だった」「その動きを李承晩政権は徹底的に弾圧した」(27~28ページ)→学生たちの合言葉は1961年5月の「板門店南北学生会談開催」(前述の②参照を)に向けてのものであり、「李承晩政権末期」ではない。李承晩政権は前年60年の4月学生革命ですでに崩壊しており、「李承晩政権は徹底的に弾圧した」というのも誤りである。
「韓国にはアメリカを中心とする国連軍が、北朝鮮にはソ連と中国の軍隊がそれぞれ駐留していた」(28ページ)→「板門店南北学生会談」が提唱されていた61年当時、北朝鮮にはソ連軍も中国軍も駐留していなかった。北朝鮮に進駐・軍政を敷いていたソ連は北朝鮮政府樹立後の1948年12月24日までに軍撤収を終了。朝鮮戦争に参戦した中国人民志願軍は休戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
韓国および南北統一問題に関心をもち韓国の現代史に関する書物を読んできた人ならば、辺真一氏の新刊中の事実(史実)についての記述に違和感を覚え、その誤りに容易に気付くだろう。だが、韓国現代史を知らない多くの読者をミスリードしかねない。なぜ、そのようなずさんな本づくりをしたのか、著者、そして編集者に聞きたい。
林泰二(自由業、在神奈川)