掲載日 : [2008-09-03] 照会数 : 5436
丹波マンガン館閉館へ 親子2代語り継いだ歴史
[ 鉱山での過酷な労働をしのばせる所蔵品について説明する李龍植館長 ]
【京都】丹波盆地に徴用され、過酷な労働環境の下で日本の軍需産業に従事させられた在日1世の苦闘を伝えてきた「丹波マンガン記念館」(京都市右京区京北町)が、来春にも20年の歴史に幕をおろす。この施設は在日1世の李貞鎬さん(57=当時)が、「誰かがこの歴史を語り継がねばならない」と、独力で89年に建設。貞鎬さん亡き後は子息の龍植さん(48)が遺志を継いできた。
孤軍奮闘 20年で区切り
坑道のごく一部、約300㍍分を見学者が立って見学できるよう掘り広げた。
一部の電気工事などをのぞいては多くが手づくりだ。採掘の諸作業を表現した20体を超えるマネキン人形は、初代館長の李貞鎬さんが作業のポーズをとり、その写真を見ながら夫人の任静子さん(75)が、カッターやグライダーを使い、腰をかがめたり、座った形に作り直したという。整地作業はもとより、壁の塗りかえまで一家6人で力を合わせた。それでも、私財1億円を費やした。
マンガン鉱山に機械類が導入されだしたのは60年代の後半から。展示された人形を見ると、鉱夫はじめじめした冷たい坑道のなかで長時間うずくまり、ゲンノウというハンマーや石頭でノミを打ち、手掘りでマンガン鉱石を掘り出していたのが分かる。坑道などは3日がかりで深さ30㌢ほどの穴を数本掘り、そこを火薬で爆破してつくった。音声テープは、「炸孔して火薬で爆発するという危険な作業に従事させられたのは朝鮮人だった」と、淡々と繰り返し伝えている。
かつて丹波の山々には約300カ所のマンガン鉱山があり、多数の韓国人が徴用され、働かされた。李貞鎬さんが大谷鉱山に記念館を建てようと思いたったのは、過酷な労働のために若死にしたり、78年の閉山後は散りぢりになってしまった同胞のために、かつて彼らが生きたモニュメントとして残したいと思ったからだという。
解放直後から坑内労働に携わってきた李貞鎬さんは、じん肺病を患って95年3月に亡くなった。記念館の運営は龍植さんが引き継いだ。龍植さんは「かつて大谷鉱山で働いた同胞の名前や経歴を調べ、記念館に飾りたい」と語っていた父親の遺志を継ぎ、韓国に帰国したかつての鉱山労働者を訪ねて聞き取りを重ねた。 この結果、一部でささやかれてきた「大谷鉱山で働いた人は多くの収入を得て故郷に帰った」という風説が誤りだったことを確かめた。なかには食事中、拉致同然に連れてこられたという同胞もいたという。「募集」とはいえ2年で故郷に帰すという約束が守られず、5年に及んだという例もあった。
龍植さんは「アボジのあとを継いで14年間、館長をしてきました。しかし、これ以上続けていくのは経済的にもう限界。アボジには十分親孝行した。オープンから20年の満願を迎える来年5月をメドに閉館したい」と静かに語った。龍植さんによれば、夏には1日100人を超す来館者でにぎわうこともあったが、近年は来館者が激減しているという。
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マンガンとは
日本が侵略戦争を起こしてからは、鉄を固くするマンガンは大砲の砲身や戦車のキャタピラなどの製造に欠かせない鉱物となった。鉱山の労働力不足を補うため、大量の韓国人や中国人が働かされた。丹波盆地は質の良いマンガンの産地として知られ、マンガン鉱山は基幹産業として90年続いた。
(2008.9.3 民団新聞)