掲載日 : [2009-09-16] 照会数 : 6842
「医学の聖典」を世界へ 不朽の「東医宝鑑」編纂400年迎え
[ 講演する〞民間普及大使〟の中澤俊子さん
]
脈々と生きる仁術
歴史社会学的にも意義深く
朝鮮医学の大著『東医宝鑑』がユネスコの世界記録遺産「世界の記憶」に登載されたことを記念する国際学術セミナー「東アジア伝統医学と東医宝鑑の世界化」(保健福祉家族部・国立中央図書館主催)が3、4の両日、ソウルで開かれた。来年は許浚が同著を編纂して400周年、2013年は刊行400周年。その歴史的な偉業の再照明と世界への普及に力が入る。
ユネスコ遺産登載で国際セミナー
発表者にはユネスコ世界記録遺産担当官(米国)、『東医宝鑑』を医学の現場で研究・実践している韓国、米国、中国の専門家のほか、同書を編纂した医師許浚をテーマとした小説『東医宝鑑』(李恩成著)の日本語訳出版などに奔走し、いまも民間大使として『東医宝鑑』の普及に努める中澤俊子さん(68、結書房元顧問)が招かれた。
中澤さんはセミナーで、「漢方医学について、中国で生まれ日本で育った、日本独特の伝統医学」と位置づけ、「韓方医学」の存在を軽視する日本の現状に触れ、「『いま、なぜ許浚なのか』というテーマで、これからも日本各地で講演を行っていく。特に若者に伝えたい」と締めくくり、ひときわ大きな拍手を受けた。
古今の処方一目瞭然に
漢方の巨峰とされる中国・明代の『本草綱目』に並び立つ『東医宝鑑』は、前者が博物的傾向の強い書物とすれば、当時のあらゆる医学知識を網羅した臨床医学の百科全書と言える。25巻25冊からなる同書は内景(内科)、外形(外科)、雑病(雑科)、湯液(薬科)、鍼灸の5編構成で、症例ごとに病論と薬方などを出典とともに詳しく列挙し、これに自身の経験に基づいた薬の処方箋と鍼灸方法を加え、古今の処方が一目瞭然に把握できるようになっている。
許浚は著述・編集能力も図抜けていたがゆえに、臨床医にとって貴重な医学聖典を残せた。「その医学的業績は世界的水準を抜くもの」(三木栄『朝鮮医学史及び疾病史』思文閣出版)と声価は高い。『東医宝鑑』は伝統医学として脈々と生き、韓国医学界では現在も盛んに活用され、家庭医学書としても普及している。
吉宗が医療改革手本に
日本、中国にも多大な影響を与えてきた。中国では1763年に初めて翻訳刊行されて以来、25回にわたって30余種の版が発行された。95年に国賓として韓国国会で演説した江沢民国家主席は『東医宝鑑』に言及し、両国の文化交流史上の優れた業績と讃えた。
日本への影響については、『東医宝鑑』を座右の書のひとつとした徳川幕府第8代将軍・吉宗の存在が大きい。その事情に詳しい『倭館‐鎖国時代の日本人町』(近世日朝関係史専攻の田代和生著。文春新書)ではこう言っている。
朝鮮は医学先進国であり、すでに高麗時代末から独自の医学が発達し、朝鮮時代に刊行された医学書は2百種類に及び、その最高峰が『東医宝鑑』であった。吉宗が自ら所望して同書を入手したのは1718年。最も関心を寄せた「湯液編」には薬剤名がまず漢字で、その下に朝鮮の固有名がハングルで表記され、中国薬(唐薬)と朝鮮薬(郷薬)が整理されていた。
日本は1662年、江戸幕府が朝鮮に使節を送った際に同書を求め、1720年(24年説も)に翻訳・出版した。吉宗が手にしたのは「原本」ということになる。吉宗はその後、朝鮮を手本に医療改革に尽くし、小石川薬草園を4万9600坪に拡張、小石川養生所も開設した。
日本での医療普及に果たした役割は大きいにもかかわらず、医聖許浚や『東医宝鑑』の存在を知るのはごく一部に限られる。「広辞苑」など日本の大手出版社の辞典や「世界名著事典」などには、『本草綱目』はあっても『東医宝鑑』の項目はない。
同著は、世界文化遺産に指定された『八萬大蔵経』が蒙古に蹂躙された高麗時代に製作されたように、豊臣秀吉軍の侵略による亡国の危機のなかで編まれた。医学的にはもちろん、絶体絶命の局面に見せる人間の強靭さを示すものとして、歴史社会学的な側面からも光が当てられていい。
来年に国際会議も計画
中澤さんは編纂から400年の来年11月、貫井正之さん(NPO法人フレンド・アジア・ロード、通称「ホジュン会」代表)とともに国際フォーラムを計画している。韓国でも刊行400周年にあたる2013年に、東医宝鑑EXPOを開催する予定だ。
『小説・許浚』(上・下2巻組)の問い合わせは中澤さん(℡・FAX0422・34
(2009.9.16 民団新聞)