
「伝えたい」一念から
本紙掲載のコラムを出発点に
2008年に連載コラム「韓豪日グローバル家族こだわり在日日記」を担当させて頂いたスーザン・メナデュー・チョンです。
最後の連載で「外国人の存在を忘れた日本の愛国心教育」を書き、後に、その原稿が50歳過ぎた私の修士論文の土台になるとは想像もしませんでした。
コラム終了後に、30年間、良妻賢母を目標とし、人生を送って来た私に少し変化が起こりました。在日韓国人・朝鮮人の困難な歴史を英語の文献にして残せたらと、強く思うようになりました。
今回の投稿は、50歳を過ぎた私の学問の旅を紹介させて頂きます。
2009年に夫の理解と励まし、子供たちの応援を支えにして韓国語習得のために単独で韓国に渡り、延世大学語学堂に入学して韓国語を学びながら大学院を受験しました。
2010年に高麗大学国際大学院の韓国研究学科に合格し入学。その後、11年にシドニー大学院東洋研究学科に転入し、修士課程を修了、12年卒業見込みの身分となりました。
在日の社会史を研究するなら、韓国を知るべきで、韓国語を通して韓国人の心や考えを理解し、近代化の韓国がどのように在日韓国人・朝鮮人を感じているか探りたかったのです。私自身が教育現場で感じたことを紹介させて頂きます。
激しく変化した韓国社会と教育現場では、儒教的な伝統が強く残っていました。過去の権威的な考えと、民主的思想が微妙に都合よく混在していると感じました。
競争社会の中、情は厚かった
個人的に、韓国の教育は異常ではないかと感じることばかりでした。猛烈な大学受験後に、就職に必要なスペックを積むため、学生が必死に勉強をするしかない状態です。儒教的な上下関係が厳しい大学では、教授は学生の自由や権利を無視して、自分の研究を優先して手伝わせている状況でした。
高麗大学内ではアメリカに憧れ過ぎのため、在日についてあまり関心がありませんでした。強いナショナリズムの存在と反日感情が、残念ながら私の妨げとなってしまいました。
在日史について論文を書きたい願望で、韓国の大学に入学したはずなのに日本語の文献を使い、論文を書くことにほとんどの教授は、良い顔をしませんでした。
満足な論文を書かせて貰えないなら、何のために単独留学をしたかと疑問を感じ、転校する決断をしました。オーストラリアの大学で、私の考えを理解して下さる教授を探しました。
振り返ると韓国での生活では、韓国人の変わらない (情が厚い)に救われました。どちらかと言えば日本で孤独を感じていた私に、多くの人から招待して貰ったり、寂しい時に電話を掛けて頂いたり、年下にも大事にして貰いました。韓国人の「イエス」と「ノー」のはっきりしたスタンスも楽でした。色々の縁に感謝しています。
韓日を離れてやっと書けた
シドニー大学院に入学して、論文の担当の教授と最初の打ち合わせのときに「これはあなた自身の論文だよ」と言われ、救われました。不思議なことですが、日本と韓国から離れ、楽観的に論文が書けました。
ほぼ1年掛けて書き上げた120頁の論文のテーマは「Postcolonial practices in Japanese education and their effect on Zainichi Korean students」。日本語訳は「戦後における日本の文部省がカリキュラムを通して、単一民族国家政策が在日の学生に与えた心理的な苦痛について」です。論文を提出して、博士課程に入学出来る成績を取れました。
現在、近代化韓国の価値観は確かに民主的となり、また、在日の存在も人の記憶から消えています。
しかし、在日韓国人・朝鮮人の歴史の保存は、在日の責任だと強く感じています。わずかな形でも私自身も博士論文を通して、応援させて頂きます。
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プロフィール
スーザン・メナデュー・チョン
1959オーストラリア・キャンベラ生まれ。76年、ロータリークラブ交換留学生として岡山朝日高等学校に1年間留学。77年、駐日オーストラリア大使として赴任する父親とともに再来日し、上智大学比較文化科入学。81年卒業。80年、全鐘文氏と結婚。81年、韓国国費留学生としてソウル大学院入学のため語学学校入学。82年、長女出産のためソウル大学院中退。09年、単独でソウルに行き、延世大学語学堂入学。10年、高麗大学国際大学院修士課程の韓国研究科入学。11年、シドニー大学大学院東洋研究科転入。11年シドニー大学大学院修士課程修了。12年卒業見込み。
(2012.1.18 民団新聞)