
未来への希望 歌いつがれ90年
「子らに民族の歌を」…亡国の悲しみ 乗り越えて
青空わたる 小舟には/うさぎと桂木 ひとりずつ/白帆もかけず さおもなく/よくも行けるよ 西のくに
南北祖国で知らない人のいない童謡「半月」です。韓国最初の童謡といわれ、子守歌としても長く歌われてきました。
「半月」は童謡作家・尹克栄(1903〜1988年)が、1924年につくりました。彼はそれまで、東洋音楽学校(現東京音楽学校)でピアノや声楽を学んでいましたが、1923年9月1日、関東大震災が起こりました。首都圏は大混乱に陥り、「朝鮮人が井戸に毒薬を投げこんだ」などといった悪質なデマが流されて、自警団により6000人もの朝鮮人同胞の命が奪われました。それで尹克栄は、音楽修業もそこそこに、命からがら朝鮮に逃げ帰ったのでした。
1年後の1924年9月のある日、早くに他家に嫁いでいた姉の病死が伝えられ、家中みな悲しみにくれていました。しばらくして尹克栄は、外に出て空を仰ぎ見たところ、昼間なのに月が白くかかり、大海に漂う小舟のように見えました。尹克栄はその月に、姉を亡くした悲しみとともに、亡国の民の悲しみを感じ取ったのです。
銀河を越えて 雲の国/雲国すぎて どこへ行く/遠くできらきら 照らしてる/明星の灯台だ かじをとれ
尹克栄は「半月」を、単なる悲しみの歌にしたくなかったので、最後の詞をどう表現しようかと苦心しました。そして、〞明星の灯台だ かじをとれ〟と、未来への希望をさし示す歌詞をつくり出したのです。
オリニ運動拡大に貢献
音楽学校を中退した尹克栄は、自宅に「一声堂」という研究室をつくってもらい、音楽を独学で研究しました。そんな彼に、気がかりなことが一つありました。一声堂に遊びに来るようになった近所の子たちが、日本の唱歌や童謡ばかり歌っていたからです。
そのころの朝鮮では、子どもは〞ガキ〟にあたる〞エノム〟〞エセキ〟などと呼ばれて、まともな扱いを受けられず、子どものための歌もなかったのです。そういった環境に心を痛めた天道教の若き指導者・方定煥(1899〜1931)は、〞オリニ〟という呼び名をつくり、児童雑誌『オリニ』を創刊して「オリニ運動」を展開しました。
東京留学時代に下宿で方定煥の訪問を受け、童謡の必要性で意見が一致していた尹克栄は、一声堂で子どものための童謡創作に取りかかります。
最初に出来上がった歌は、父母に年始の挨拶をする〞歳拝〟などの様子を描いた「ソルナル」でした。その後につくった童謡が「半月」でした。続いて尹克栄は、『オリニ』などの児童誌や、児童サークルの文集などに掲載された童詩に、次々と曲をつけました。これらの童詩はみな、尹石重(1911〜2003)ら、当時10代前半の少年少女たちが投稿した作品でした。
彼はソウルの小学校の朝鮮人教員に、これらの童謡の楽譜を書類扱いにして、書留便で送りました。楽譜を受け取った教員は驚き、かつ大喜びして、放課後の掃除当番の児童たちをつかまえては、それらの童謡をそっと教えたのでした。童謡が広まっていくと、日本人校長の妨害にもあいましたが、いったん堰を切った水は止まりません。
「半月」「ソルナル」の普及で自信を深めた尹克栄は、やがて「ダリア会」という児童合唱団を組織して演奏活動を展開し、またレコーディングをするなど成功を収めます。ダリア会からは、のちに朝鮮の音楽教育界の指導者となる人材が育っていきました。
1956年には、オリニ運動に生涯をささげた小波方定煥の業績を讃えて、尹石重ら児童文学者が制定した第1回「小波賞」を受賞しました。
子どもたちから「パンダル・ハラボジ」と親しまれた尹克栄は、1988年、85歳を一期として波乱の生涯を閉じました。
なお「半月」のメロディーは、台湾やタイなど東南アジアでも、今なお歌い伝えられているとも聞きます。
(2014.5.7 民団新聞)