

民団中央本部主催の「第7回MINDAN文化賞」(2013年度)の孝道部門(大学・一般の部)に応募した作品「母のバケットリスト」で優秀賞を受賞した金廷さん(38)。受賞をきっかけに同作品を加筆し、2011年に亡くなった母親と日本で暮らした思いを綴ったエッセイ『母の東京‐a little about my mother』(韓国語)を7月、韓国のヒョヒョン出版から刊行した。「母の死を乗り越えるために、当時の思いを本の中に置いてこられた」と心境を語った。
堂々生きた証として
子と亡夫への愛を支えに
『母の東京』は、38歳で夫を亡くした後に来日し、東京・新宿のゴールデン街に居酒屋を構えて2人の子どもを育て、11年に口腔ガンで亡くなった母と暮らした20年間の思いを綴ったものだ。
7月に韓国で発売されると反響を呼び、大型書店の教保文庫やネット書店アラジンで同月の総合ランキング100位内に入った。出版は、優秀賞を受賞した記事を金さんがブログに掲載、それを見た韓国・京畿道坡州市のヒョヒョン出版から持ちかけられた。
金さんの母親は、銀行員を経て22歳のとき、ソウルで第1号の女性DJとして音楽喫茶で働いた。27歳で結婚後、夫の実家のある忠清南道天安市に移り住み、家業を手伝ってきた。38歳で夫を交通事故で亡くした後、生活は一変した。金さんが小学校5年のときだ。
父親がわずかに残した遺産で生活するも、貯金は減るばかり。母親は自活するために、店を開こうと貯めていた資金をだまし取られたこともある。「1、2年は頑張ったけれど、どうすることも出来なかった」
当時の韓国は「女性は結婚したら家庭に入るべき」という価値観が根強く、働き口は家政婦などに限られていたという。 母親は仕事を得るために子どもたちを3年間、親戚に預けて姉の住む日本へ向かった。その後、東京・新宿のゴールデン街の店が空くという情報を得て、居酒屋を開く。母を追って金さんが来日したのは16歳、弟は14歳だった。東京韓国学校を経て、推薦枠で慶應義塾大学に入学した。
金さんは父親を亡くしてから成人するまで母親に甘えたことはなかったという。「負担をかけてはいけない、問題を起こさずにいようと思っていた」。だが、我慢し続けてきた心は疲れていた。 大学入学後、学生相談室(カウンセリング)に通った。「父が亡くなってあまり泣けなかったけど、ここで回復することができた。カウンセラーに会えてよかった」
母親は精を出して働いた。店も軌道にのり、客から「オンマ」と呼ばれて慕われていた。ガンが発見されたのは09年の秋。60歳の誕生日の目前だった。インプラントの治療で口に異常が見つかり、検査の結果、口腔ガンと宣告された。「母は最初、家族に言わなかった。私が妊娠していたので心配をかけたくなかったのでしょう」
当初、ガンの初期で治療は可能と言われた。母親は、抗がん剤治療の合間をみては、自身の生きがいである店に立ったという。一度は完治したものの再発。11年4月、余命3カ月の宣告を受けた。家族に迷惑をかけたくないとの思いから、母親の希望でホスピスに入所。同年9月、61歳で亡くなった。
「母親の死を乗り越えて」
金さんはエッセイを書いた理由を「母の死を乗り越えるために、その思いをどこかに置いていく」ためであり、「2人の子どもたちに、おばあちゃんがいたということを分かってもらいたかったから」と話した。
金さんは、どんな環境にあっても自分らしく、堂々と生きた母親を尊敬している。遺品の中に見つけた日記帳は、手紙形式で夫への思い出が綴られていた。初めて母親の弱い一面を見たという。
大学卒業後、KBSラジオやレディー京郷(京郷日報)などを通して、日本の情報を発信し続ける一方、東京外国語大学大学院で韓国大衆文化の研究(博士課程)も行っている。
現在、ヒョヒョン出版からの依頼で、国際結婚をした同胞の育児体験をまとめた『出産と育児 国際結婚をした人たち』を執筆中だ。金さん自身、日本人男性と結婚している。
今回の出版で心の整理はついた。「母に対する思いが書けた。これで自分の中の悲しさみたいなものが途切れる訳ではないけど」。やりたいことは山ほどある。夢の実現に向かって進んでいる。
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(2014.10.8 民団新聞)