掲載日 : [2016-04-20] 照会数 : 6084
<寄稿>韓国文化に尽くした柳宗悦…杉山享司(日本民藝館学芸部長)
[ 日本民藝館の62歳の柳宗悦(1951年) ]
[ 杉山享司 ]
今年は初訪問から100年
民族への敬愛も深く
韓国文化の紹介とその保存に尽くした日本人‐現在、日本民藝館で開催されている「日本民藝館所蔵 朝鮮工芸の美」展は、創設80周年を記念する特別展の第一弾。当館の創設者である思想家の柳宗悦(1889‐1961)が中心となって蒐集した、朝鮮時代(1392‐1910)を中心とする諸工芸品約1600件の中から、優品約400件を厳選し紹介するものである。
本展には、一昨年より実施された韓国国外所在文化財財団による所蔵品調査の結果が大いに反映されている。韓国国外所在文化財財団とは、海外に所在する韓国文化財を総合的に調査・研究し、韓国文化財の価値を国内外に知らせるための専門機関。資料の持つ文化財的価値が明らかになり、また破損の著しい家具や木工品の修復作業が実施されたことは、今回の調査事業の大きな成果であったといえよう。
柳は20代の頃から朝鮮民族の芸術文化に心惹かれ、その魅力に触発されて数々の論考を発表するとともに、卓越した審美眼によって優れたコレクションを成し、その公開を通して朝鮮文化の真価を世に問い続けてきた。
国内屈指の質と量を誇る当館所蔵の朝鮮時代の工芸品の多くは、この柳自身の「眼」と「足」により、1910年代から1930年代にかけて主に朝鮮半島で蒐集されたものだが、その活動を支えたのは、朝鮮を愛し、また朝鮮の人々からも愛されていた浅川伯教(1884‐1964)と巧(1890‐1931)の兄弟であった。兄の伯教は柳と朝鮮陶磁器との出会いを繋げ、弟の巧は柳と朝鮮の人々とを結び付けたのである。
柳は晩年に、「かく朝鮮の器物を好きになったのは、私にとって種々生涯の方向を定める事にもなり、うたた感慨が深い」(『四十年の回想』1959年)と述懐しているが、この二人との出会いが無ければ、後の民藝美論の構築はもとより、その美を紹介する日本民藝館も創設されなかったかもしれない。
柳は朝鮮陶磁器との出会いを契機にして、およそ美的価値とは無縁のものと考えられていた日用の器物に新たな評価の光を当て、1921年には日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。 1922年には『朝鮮とその芸術』を刊行して朝鮮文化に対する自らの敬愛の想いを披瀝して、1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設して朝鮮工芸の紹介とその保存に尽力した。柳の心を捉えたものは、朝鮮工芸が宿す作為を超えた自由な精神世界であり、おおらかで伸びやかな民族固有の造形美であった。
植民地時代における柳と朝鮮との関わりを語る際に、柳が朝鮮の民族や文化を擁護した数少ない日本の知識人の一人であったという事実を、ゆめ忘れてはならない。
1919年3月1日、日本の植民地支配に反対して、「独立万歳」の声が半島全域を揺るがした。しかし、独立と解放を求める運動は日本の武力によって弾圧され、多くの犠牲者がでた。当時の日本のほとんどの識者が沈黙する中にあって、柳はこの事件を黙って見過ごすことができず、読売新聞に「朝鮮人を想う」という一文を書いた。この原稿は、日本人でありながら、被支配者である朝鮮の人々の立場を想う心情に溢れていた。
朝鮮芸術への思慕の情が柳の心を突き動かしたのであろう。柳は日本による朝鮮民族への弾圧や同化政策に異論を唱えるだけではなく、それを生んだ国や民族を愛し、朝鮮の友として行動したのであった。
だが、このような時流に抗う勇気ある行動も、柳にとっては当然のことであったに違いない。美しい器物への愛が、それを生み出した人々に注がれることは必然の結果であったのだ。
奇しくも今年は、柳が初めて韓国を訪れてから100年にあたる。この節目の年に、このような展覧会を開催できたことは意義深く思われる。この展覧会を機に、柳の念願であった美の悦びを介した相互理解の気運が、日韓両国民の間に深まることを願ってやまない。
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創設80周年特別展
日本民藝館所蔵朝鮮工芸の美
主催 日本民藝館
後援 駐日韓国大使館韓国文化院
韓国国外所在文化財財団
韓国国際交流財団東京事務所
会期 6月12日(日)まで
(2016.4.20 民団新聞)