掲載日 : [2007-09-05] 照会数 : 3362
<読書>越境の時−1960年代と在日 問い続ける日本の「民族責任」
鈴木氏は名高いフランス文学者である。その彼がなぜこの時期、「60年代」であり、「在日」なのか。
著者は小松川事件(58年)に衝撃を受け、60年代から70年代にかけて、在日韓国・朝鮮人の人権問題に深く関わった。人質を盾に篭城し在日差別を「告発」した金嬉老事件(68年)では、8年半におよぶ裁判を支援している。そこに、一貫して流れるのは日本人としての「民族責任」意識である。
著者はフランス留学に入った1954年、アルジェリア独立戦争に遭遇し、抑圧者と被抑圧者のすさまじい葛藤を体感することで、日本人の名で抑圧する状況、あるいは日本人でないことによって抑圧される状況があったならば、否応なしに抑圧者に組み込まれる自分はどうしたらいいのか−−この問題意識が研ぎ澄まされた。
それが在日朝鮮人の存在に向かい、李珍宇の言葉に胸を揺さぶられる。「言葉では加害社会としての日本を告発しなかった」彼によって、「逆に私は、日本社会の醜さを明らかにする責任が日本人に委ねられている」と痛感する。
筆者は、数多い戦後回想記から60年代に現れた在日と日本人の関係性が抜け落ちていると指摘し、そのような無反省史観が迫害を温存させ、醜悪な「美しい日本」を唱えさせていると告発する。
(鈴木道彦著、集英社新書700円+税)
℡03(3230)6393
(2007.9.5 民団新聞)