3・11東日本大震災からまもなく2年。民団では震災直後、被災者を支援するため対策本部を設けて義捐金募集、救援物資提供、炊き出し、医療支援など幅広く救援活動を展開してきた。家屋、店舗、そして家族を失った被災同胞も多いが、さまざまな課題を抱えながらも未来に向け復旧・復興へと歩んでいる。激甚被災3県の同胞に聞いた。
申末子さん |
■□宮城 定期的にお礼の便り
申末子さん(68・宮城県女川町)は自宅も小料理店も失った。避難所に駆け込んだ後、自ら進んで炊き出しのボランティアを買って出た。その気丈さが買われ、震災から半年後には職場に就くことができた。昨年10月からは転勤になり東北電力で働いている。
申さんからは定期的に民団宮城にお礼の便り(はがき)が寄せられている。「女川も何とか前に進んでおり、私もそれに合わせながら前へ前へと心を胸に頑張ってます。民団の温かいお気持ちを忘れずに勇気を持って生きてます」。震災2年目を前に届いた便りだ。
金裕姫さん(58・名取市)は自宅が全壊し親子と母親の3代で名取市の仮設住宅で暮らしていたが、このほど、自宅再建のメドが立った。民団宮城にその朗報を伝える便りが届いた。
「団長と民団事務局のみなさま。民団からの義捐金を受け取りました。今まで、物心両面で多くの援助を頂きました。私ども親子はもちろん、オモニにまでよくして頂き、重ねて感謝しています。おかげさまで全壊した自宅再建のメドも立ちました」
金日光さん(37・仙台市)は学生時代に韓国から仙台に留学し日本人女性と結婚。3人の子どもに恵まれるが、震災で最愛の妻を失った。
幼い子どもたちは岩手県の妻の実家に預け、仙台市内でけなげに働きながら生計を立てている。震災後、義捐金や救援物資など、民団から届いた支援に深く感謝し、正式に民団団員として登録した。
「団員であることは私の誇りですから」
蔡明善さん(49・石巻市)は石巻市の日本人男性に嫁いできたが、夫を津波で失った。自身も九死に一生を得て助かったが、津波で水を大量に飲み、体調を崩した。
「被災者みんなが頑張っている姿を見て、私も負けてはいられない」と、この3月20日、同市で韓国料理店「かおり」をリフォームする。
張賢淑さん |
「正直、苦しいけど、同胞の仲間や同僚と助け合いながら、今を大切に生きています」
尹順子さん(65・南相馬市)は震災直後、母が亡くなるという悲しさが重なった。
「震災当時のトラウマはありますが、民団やみんなが支えてくれているという勇気を持ち、母の分まで力強く生きていきます」
裵明道さん(66・広野町)は福島第1原発事故の収束拠点である広野町で宿屋と焼き肉店を経営。そのため、震災直後から原発作業員や復興建設関係者で宿屋は大忙しだった。2年を経てようやく、落ち着きを戻した。
「こんな小さな宿でも復興のために必要とされているから、当分は閉められませんよね」
姜姫順さん |
姜姫順さん(54・郡山市)は難病治療で退院した直後、自宅のタンスの下敷きになり大けがをした。先月から再び入院生活を送っているが、民団の支援は大きな心のよりどころとなった。
「あの時、民団があったから無事な今があります。ただ、放射能の影響が今後、わが子にどうなるかだけが心配事です」
洪啓子さん(59・大船渡市)は自宅と喫茶店、遊技店などの店舗が津波で流され、全壊した。夫と娘、孫、そしてオモニと仮住まい生活を送っているが苦しい状態は続く。何とか古巣での復興をめざすものの、町全体が津波で消えてしまったため、土地利用方法の制限もあり、メドは全く立っていない。
金月子さん(62・釜石市)は自宅が火災と津波に襲われたが、鉄筋の柱が何とか残り、補修工事で再建。賃貸で営んでいた焼き肉店「モランボン」も半壊したが、夫、会社勤めだった息子、嫁いだ娘も加勢して2年前の12月に再開した。
復旧工事が進む中、宿と食堂が絶対的に不足。客足は後を絶たない。「民団の義捐金や救援などで支えられたからこそ、再スタートができた」
金英男さん(64・釜石市)は津波で夫人を失った。居酒屋兼自宅が全壊し、脳梗塞で倒れたオモニと復興アパートで2人暮らし。それでも生きていかねばと、復興工事関係者の宿が不足していることから、昨年11月、跡地に宿屋を建てた。
「家賃も予想以上に高く、借金の返済で大変だが、母と一緒に暮らせる家を持つ目標が心の支え」。8日には亡き夫人の3回忌を営む。