未来を閉ざす<歴史虚無主義>
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西独「68年世代」の反乱
統一へ地殻変動呼ぶ…「過去の克服」で意識を共有
大韓民国の建国(48年8月)は、西ドイツが市民と西側諸国の一体感に包まれて出帆したのとは違い、激しい陣痛をともなった。しかも、左右の激突が沈静化しないまま、2年後には北韓の6・25奇襲南侵によって国土を灰塵に帰し、世界最貧国から抜け出す展望を見いだせずにいた。
いち早く復興
西ドイツは逆に、韓国戦争が世界的な物資不足を招くと、ソ連支配地域からの大量の避難民が低賃金の熟練労働力を提供したこともあり、世界の需要に応えていち早く輸出立国の足場を固めた。西ドイツの復興が「経済の奇跡」と称えられ始めたのは50年からだ。
韓国では60年の4・19学生革命によって建国の父・初代大統領の李承晩が下野し、政治的な混乱が続く61年、陸軍少将・朴正熙による軍事政変が起きた。西ドイツではここでも逆に、アデナウアー(49〜63年)、エアハルト(63〜66年)とCDU(キリスト教民主同盟)主導の長期安定政権が続いている。
経済成長で圧倒的に先行した西ドイツは、分断国家ゆえの政治的試練でも先鞭をつける。「漢江の奇跡」はまだ緒についたばかりの頃だ。
ドイツ帝国の崩壊によって登場したワイマール共和国は、その最先端の民主主義憲法ゆえにナチスを台頭させた。この苦い経験が大衆民主主義への懐疑を生んだ西ドイツは、国民投票制度を設けず、国民の政治参加は4年に1度の総選挙だけという、「国民主権」ならぬ「議会主権」とも皮肉られる徹底した間接民主主義制度をとった。
60年代半ばから、直接民主主義を唱える議会外市民運動が全国に拡散し、大学民主化・ベトナム反戦運動を経て68年を頂点とした若者の大反乱に至る。最大の焦点は非常事態法(自然災害、内乱、戦争など非常事態の際、国民の基本的人権を部分的に制限し、連邦軍の投入を認めるとした)の制定阻止である。
西ドイツでは66年、建国以来初の景気後退が世界恐慌(1929年)を連想させ、いくつかの州議会に進出した極右のNPD(ドイツ国民民主党)がナチス台頭の悪夢を蘇らせていた。非常事態法はこれらへの危機意識から、それまでのCDUとCSU(キリスト教社会同盟)の連立に最大野党SPD(ドイツ社会民主党)が加わった大連立政権(同年12月発足)によって推進された。
「68年世代」と呼ばれ、大反乱の主体になったのは最初の戦後世代の学生たちだ。マルクス・レーニン主義を指導理念に、反共一辺倒で西ドイツの国力増強によってのみ統一が可能とする路線、ナチスの台頭を許した親世代とその世代が継承する伝統的価値観、それに基づく権威主義的な政治体制、これらに強烈な異議を申し立てたのである。
既成世代批判
それを端的に示すスローガンが「(ナチスとかかわりのあった)30歳以上の者は信用するな」であり、「68年世代」には「経済の奇跡」さえ汚れたものに映っていた。彼らの言い分をまとめればこうなろう。
「分断を既成事実化した西ドイツによって東ドイツは重荷を背負った。ナチによる最大の被害国・ソ連は、全ドイツを対象とすべき賠償を東ドイツから搾り取るほかなく、経済再生の担保となる工業資産で破壊を免れたものはことごとく現物賠償に充てられ、鉄道のレールばかりか枕木まで持ち去られた。マーシャル・プラン(米国のヨーロッパ経済復興援助計画)など西側の威信をかけた豊富な援助を活用できた西ドイツの経済発展は、東ドイツの犠牲の上に築かれた」
事実はどうか。西ドイツには、重工業など戦争を可能にする産業はすべて解体するか破壊し、農業と田園の国に変えることを目的としたモーゲンソー・プラン(45〜50年)が適用された。多くの知的財産が没収され、連行された優秀な科学者・研究者も少なくない。マーシャル・プラン(48〜51年)には返済義務があったうえ、連合国への賠償や駐留軍の経費支出がより大きな負担としてのしかかっていた。
「68年世代」は、豊かさを享受しながらそれを可能にした努力、格差拡大の根源である東ドイツのソ連型社会主義経済と西ドイツの「社会的市場経済」の違いを見ていない。自由な経済活動と社会的な均衡(平等)を同時に追求するこの政策は、「すべての国民に繁栄を!」のスローガンの下に「経済の奇跡」を牽引して神話の域に達している。
各地で市街戦さながらの衝突を続出させた「68年世代」は、68年5月に非常事態法が成立すると下火に向かい、多くがSPDの青年組織に流れたほか、いくつかの政治グループに分裂、過激な一部は70年代の西ドイツを震撼させたテロ組織・RAF(赤軍派)を結成する。
若者の既成世代批判は、西ドイツという国家の正当性にまで踏み込み、過去を忘却することへの警鐘ともなった。それが結果として、ナチスの罪過をナチスだけに帰することなく、全ドイツ人が背負うべき問題として直視し、東ドイツ問題を含む「過去の克服」に取り組む土壌を耕したのは間違いない。
西ドイツで初めて左派政党(SPD)が執権し、東方政策を唱えるブラントが首相になったのはこのタイミングだ。SPDは1863年以来の歴史を持つ欧州社会民主主義の伝統を代表する政党で、59年にはゴーデスベルク綱領を採択、マルクス主義から離脱して「安全な左派国民政党」に生まれ変わっていた。
実る東方政策
ブラントは東欧諸国と関係改善をはかり、東ドイツに独自の国家が存在することを認めるところから出発した。国際法上の独立国として承認はしないものの相互に代表部を置き、協力・交流をはかることをうたった東西ドイツ関係基本条約を72年に調印。73年9月の国連同時加盟に続いて、74年には代表部を相互設置する。
「接近を通じた変化」を基本理念とする東方政策は、CDUや同盟国から「屈辱とお世辞を通じた変化」と皮肉られ、東ドイツの独裁政権に奉仕するだけと糾弾され続けた。しかし、東西関係の地殻はすでに変動しており、82年に政権を奪還したCDUのコールは、消極的ながらも東方政策を継承する。
これが持ったインパクトは極めて大きかった。東方政策がSPDの専売特許ではなく、保守を含めた西ドイツ全体の、いわば国益から出てくる政策であることを証明し、東側諸国のいっそうの信頼を勝ち得たからだ。そしてドイツは、東西の建国から40年にして壁を崩壊させ、41年にして統一を実現する。
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再照明すべき産業化世代
前代未聞の国づくり…失意の国民に自信もたらす
ビスマルクによる1871年の統一以来、ドイツは近代国家を運営する能力、知的財産や工業力を蓄積し、ナチによる支配や敗戦と分断によっても、西ドイツには地力の面で大いなる遺産があった。通貨改革や「社会的市場経済」政策を成功させ、2代目の首相になったエアハルトはその象徴と言っていい。
封建王朝国家から戦争遂行と搾取一本槍の日帝支配、その後の米軍政を経て誕生した大韓民国はどうだったのか。日帝は支配全期を通じて、わが民族の経済運営や科学技術の能力を徹底して抑制した。近代国家としての運営能力は痛々しいほどに非力だった。
この惨状から
国庫金処理関係の全貌を知る者はなく、貨幣発行業務に対応できたのも朝鮮銀行(日帝の特殊銀行)で下位職にあった一人のみ。国際開発銀行と国際通貨基金に加入する54年当時でも、国民所得、輸出入額、外貨保有高など必要な基礎統計資料がなく、日帝末期に作成した資料を土台に再構成したほどだ。
61年当時の事務官以上の公務員のうち大卒は20%未満。テクノクラートはおらず、国家経済に関する知識はもとより工業分野を把握している官吏は皆無に近く、第1次5カ年計画(62〜66年)は当初、工場の建設一覧表にすぎなかった。
植民地時代に輩出された理工系の人材は約400人、そのうち博士号取得者はわずか6人。日本は40年の1年だけでも理工系卒業者は6万人近い。当時、韓半島にあった大学は京城帝大だけで、理工系が設立されたのは41年。解放されるまでに34人を輩出するにとどまった。理工系では他に専門・高等学校が4校あっただけである。
産業化時代を率いた経済官僚や技術者はどう養成されたのか。教育機関ではなく現場で、しかも混乱した現場で育てられたのだ。象徴的と言えるのが70年代初頭、大型船舶建造の実績や施設がないまま、初の海外受注となった26万㌧級タンカー2隻を建造した蔚山現代造船所である。
その方法たるや、2隻の建造と造船所の建設を同時進行させるという、前代未聞のものだった。それでも、74年夏には2隻の命名式と造船所竣工式が同時に挙行された。当時の会長・鄭周永が500ウォン札に描かれた亀甲船の写真を見せ、2隻の受注に成功したというエピソードは有名だ。
韓国経済を底上げしたものに70年代の中東建設がある。これに投入された技術・人力はベトナム戦争時、米軍の下請けなど施設設営によって蓄積された。英語で作成された図面を読むために工業高3年生2000人が猛特訓を受け、彼らが年上の技術者に作業を指示したという。
63年から77年まで、西ドイツに派遣された約8000人の鉱山労働者、1万2000人の看護師の存在も忘れてはならない。60年代初頭、最貧国の韓国に商業借款を提供してくれたのは西ドイツだけだった。それを保障する手段のない韓国は、鉱山労働者5000人、看護師2000人の派遣を約束し、その賃金を担保にすることで導入したのだ。労働者には応募が殺到、競争率は10倍を超えた。しかも、高学歴者が多く、後に大学教授になった者が30人を数える。
ゴミ箱にバラ
「世界は当時、『戦後の韓国経済再建は、ゴミ箱でバラを咲かせるようなもの』と言っていた。私たちも生きるために志願した。64年12月に朴正熙大統領夫妻がドイツを訪れ、粉塵にまみれた私たちの黒い手を握り、『無事に作業を終え、元気な姿で帰ってきてください』と声をかけてくださったとき、皆が涙をこらえきれずに泣いた」
韓国派独坑夫総連合会の会長・金泰雨が10年12月、派遣47周年を期してソウルに集った300人を前にこう語ると、皆がみな目を真っ赤にし、すすり泣いた。
韓国経済が通貨危機に見舞われた97年末、急ごしらえだがよく売れたクリスマスカードがあった。イラストは麦わら帽子にサングラスの「朴正熙アボジ」、メッセージには「かつての剛健なまでの意志が、論難の中でも経済の神話を打ち立てた::われわれも立ち上がり、声高く叫ぶ。達者で、元気に生きよう」とあった。経済苦境が精神的な支柱を朴正熙に求めさせたのだ。
大統領・金大中は99年5月、政敵であった朴正熙の生家を訪れ「経済建設を成し遂げ、6・25動乱以降、貧困と失意のなかにあった国民に自信をもたらした功績は多大だ」と高く評価した。前大統領・金泳三が同じ頃、「朴政権は軍事クーデターで民主憲政を中断させ、国民に苦痛を与え続けた独裁政権であり、美化は許されない」と声明したのとは対照的だ。
非は非とし是は是とする金大中のような姿勢はしかし、その後も大勢となることはなかった。国政能力はもちろん資本も技術も知的財産もなく、体面をかなぐり捨てて無から有を生み出した血のにじむ歴史は、むしろ根底から否定されていくようになる。
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何ゆえの<敗北・隷属史観>
検定教科書にまで…最高指導者自ら再生産も
盧武鉉は大統領就任演説(03年2月)で「正義が敗北し、機会主義者が勢いを得る屈折した風土は清算されねばならない」と強調した。西ドイツでは「68年世代」による自国の正当性否定を韓国では、最高指導者自らが行ったのである。
04年には「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」を制定し、「真実・和解のための過去事整理委員会」を稼働させた。「親日から親米、親独裁へ、権力に迎合し機会主義的な変質を繰り返した者たちと反省しない彼らの後裔」を糾弾するのが目的だ。
04年にはそうした思考を盛り込んだ高校生用の近現代史教科書が検定を経て発刊された。北韓の土地改革や親日派清算を高く評価し、<ウリ式社会主義>の根本は「創造的な活動で自らの運命を開拓する『朝鮮民族第一主義』」にあると記述する一方、李承晩は米国に隷属して「反共政策を親日派処理問題より重要」視し、朴正熙の開発政策を「各種機械や技術を日本から導入し、工場を日本資本で建設するのにともない、韓国経済は米国ばかりか日本にも隷属するようになった」と決めつけた。
この種の虚構に基づいた洗脳教育がかなり以前から施されていたことは、連載10回目(9月19日)の<全教祖(全国教職員労働組合)>の項でも見た。その浸透力は恐ろしいと言うほかない。
「04年1月陸士仮入校生意識調査結果」(250人対象)が08年4月、調査時の校長によって明らかにされた。4年の空白は、公表がためらわれるほど衝撃的だった証しであろう。「韓国の主敵は誰か」の問に34%が米国をあげ、北韓は33%だった。国軍のエリート予備群にしてこうである。
「東亜日報」は社説(08年4月5日付)で、女子中学生轢死事件を機に大規模な反米デモ(02年)が展開されたことを念頭に、「彼らのように全教祖教師の意識教育にさらされた多くの若者が、親北反米の先鋒にたったことを私たちは目撃してきた」と言い、「青少年時代に学校で学んだことは、簡単には消えない」と嘆いた。
統一へ足かせ
盧武鉉は05年の顕忠日追悼辞で「第2次世界大戦後、数多くの国が独立したが、われわれほど大きな成就を成し遂げた国はない」と述べ、現代史を曲がりなりにも肯定的に評価した。だが、その姿勢で一貫せず、<歴史虚無主義>を修正することはなかった。
「6・29宣言」(87年)を引き出し、大統領直選制を勝ち取った80年代の民主化闘争は、保守・革新の枠を超えた国民的な欲求に基づくものだった。しかし、その過程で増殖した《主思派》とそれに連なる運動圏の<386世代>の多くは、西ドイツの「68年世代」とは違い、自国の正当性を否定する心性を整理できていない。それがまた、南北統一への健全なプロセスを歪める要因となっているのだ。
(文中・敬称略)
(2012.10.12 民団新聞)