掲載日 : [2009-12-09] 照会数 : 5613
サラムサラン<14> ふたりのネーリー<2>
ソウル・オリンピックで知ったもうひとりのネーリーとは、やはりソ連から訪れたネーリー・リーというソプラノ歌手だった。平和の祭典を謳うオリンピックでは、スポーツ競技以外にも多くの文化行事が催される。「壁」を越えてソ連から派遣された文化使節のなかに、このネーリーもいたのである。世界的に名の知られた歌手ではなかったが、帝政ロシア時代からの伝統を誇るレニングラード音楽院の教授をつとめる実力派だった。 姓のリーは言うまでもなく「李」で、両親ともに韓国人のため、ネーリーという名前こそ西洋風でも、顔立ちは韓国人そのものだった。当時既に40代に達しているように見えたが、ロシア生まれのために韓国語は全く話せず、それでも初めて接した「祖国」の風俗、人情など、すべてが胸に響くらしい様子は、彼女の動静を伝える報道からも伝わってきた。水原の民俗村を訪ねて伝統の暮らしに触れた折の表情など、活き活きして、いかにも「壁」を越えて現れた彗星のように見えた。自分の体に流れる血のルーツを手探りで確かめ、政治によって断ち切られてきた絆を取り戻そうとする姿は、文化使節ということを超えて、ひとりの人間ドラマを目の当たりにする気がした。
ネーリー・リーの独唱会は世宗文化会館で行われた。曲はチャイコフスキーやラフマニノフなど、ロシアを代表する作曲家の歌曲で占められた。北国特有の繊細な抒情とロマンティシズムを湛えて、憂いを含んだソプラノの美声が流れた。高い芸術性に聴衆は酔い、文化使節としての正業を彼女は見事に果たした。
音楽が音楽を超えたのは、アンコールの時だった。チマ・チョゴリに着替えてステージに現れた彼女は、韓国歌曲の「懐かしの金剛山」を歌った。ピアノ前奏が始まった時には、聴衆はその曲が何かを瞬時に解し、溜息とともに熱い感情が爆発したようになった。
韓国語で歌われたその歌は、とても涙なくしては聴けるものではなかった。ロシア歌曲はすべて暗譜で歌ったネーリーだったが、このアンコール曲ばかりは、楽譜を見ながら歌った。それは文化使節のご当地サービスなどではなく、祖国の歌を祖国の言葉で歌いたいとする、彼女自身の魂の叫びだった。
歌は「壁」を越えた。会場を埋めた聴衆の多くが泣いていた。熱唱する本人の目にも、涙が溢れていた。歌が終わるとともに、わあーっという大歓声が会場を包んだ。あの年の秋、ソウルという町が抱いた理想とその熱気の、最も美しく感動的な結晶であった。
多胡 吉郎
(2009.12.9 民団新聞)