朝鮮王朝で最も悲劇的な王と言われる端宗(在位1452〜1455年)‐。薄幸の王は何度となくドラマに描かれ、その度に見る者の涙を誘う。12歳で玉座につくが、癸酉靖難(1453)のクーデターの後に譲位を余儀なくされた。やがては愛妻との仲を引き裂かれ、都を追われて若き命を散らした。
江原道寧越は端宗が配流となり最期を迎えた地だ。南漢江を遡った東江沿いにあり、ソウルからは高速バスで2時間あまり。バスターミナルで降りると、端宗が最後に暮らした観風軒が徒歩5分の距離にあるという。早速、足を運んだ。
観風軒は朝鮮時代の官庁宿舎で、庭内に子規楼という2階建ての楼閣があり、端宗はよくここにのぼり詩を詠んだ。「子規(ホトトギス)の声が断つ暁、峰に残る月は白く、流血のように春の谷に落花が紅い。天も耳を塞ぎ、尚も哀訴を聞いてはくれない」…。白皙の頬を伝う涙が見えるようだ。
1457年10月、都からの使者が観風軒を訪ね、死を賜る王命が伝えられた。抗するすべもなく、端宗は16年の短い生涯を終えた。
実は寧越に着いた端宗が当初暮らしたのは、清泠浦という東江の中洲だった。夏の豪雨で清泠浦が冠水し、町中の観風軒に移されるまでの2カ月間、端宗は本来の流刑地であるその地ですごした。
タクシーで清泠浦へ向かった。10分ほどで、端宗のいた中洲へと渡る船の発着所に着く。切符売り場のある高台から清泠浦一帯を見渡した途端、溜め息が出た。川が中洲を囲んで馬蹄型に湾曲し三方が水で隔てられている。残る一方は崖で出口が開けない。完全な弧絶の場だ。端宗の悲哀がひしひしと迫る。
松に覆われた清泠浦の一角に、端宗の暮らした住まいが端宗御所として復元されている。部屋の中に端宗や下人を模した蝋人形が置かれているのはいささか興醒めだが、松林を抜ける風音が耳立つようなわび住まいの切なさは、今なお胸に響く。
端宗には3年前に結婚した愛妻がいた(定順王后宋氏)。魑魅魍魎の巣食う宮廷政治の渦中で、この妻だけが端宗の心の拠り所だった。だが妻は寧越への同行が許されず、都に置いてこざるを得なかった。もとは王妃だった女性が奴婢の身に落とされ、後には尼になった。
清泠浦の奥の丘に登ると、裏側は峻厳な崖となって切り立ち、眼下には蛇行する川が、西側には遠く山並みが望まれた。端宗は連日この頂きに登り、都のある西の空を眺めて石を積み上げたという。今も望郷塔と呼ばれる石積みが残る。端宗の胸を占めた都への思いの核は、まつりごとや権勢ではなく、別離を強いられた愛妻だったろう。
いきなり鋭い汽笛の音が谷を貫いた。川向こうに列車が西へと走って行く。そこに線路があることすら気づかずにいたが、堤川経由でソウルに向かう特急列車だった。
西へ走る列車が、端宗の思いを載せて都に向かうかのように思えた。しばらくは列車の通過する音が谷に響き、余韻を引きながらその音が消えると、後には全身を包むような静寂が訪れた。そのあまりの静けさに、端宗の孤独が改めて身に沁みた。
多胡吉郎(作家)
(2014.1.29 民団新聞)