日本でも大人気となった韓国時代劇の「宮廷女官チャングムの誓い」。その第49話では、チャングムが文定王后から世子(王の後継者)の毒殺を依頼される場面が出てくる。
この文定王后は11代王・中宗の3番目の正室で、世子は中宗の2番目の正室から生まれた息子だった。
自分が産んだ息子をぜひとも王位に就けたくて文定王后が世子の殺害をはかった、という伝聞が、当時の野史(民間に伝えられた歴史書)にも出てくる。そうした噂を「宮廷女官チャングムの誓い」も取り入れたのである。
野史だけでなく、正史である「朝鮮王朝実録」を読んでも、文定王后には怪しい行動が実に多い。
世子は中宗が世を去ったあとに12代王・仁宗となるが、王位に就いてすぐに重病に陥ってしまった。その直前に、仁宗は文定王后のもとを訪ねて餅を食べている。すぐに、「その餅に毒が……」という疑念が仁宗の周囲から起こった。
実際、仁宗が病に臥してからも、文定王后は不可解な行動を続けている。その行状は、「朝鮮王朝実録」に記されているが、仁宗が深刻な病状になっているのに、文定王后は王宮の外に嫁いだ自分の娘の家に行きたいと言いだして重臣たちを困惑させているのだ。
「今は絶対にお控えくださるようにお願い申し上げます。人々がそれを知れば、疑いが生じて反乱が起きかねません」
こう言って重臣たちは文定王后に自重を促したが、彼女は再三にわたって強硬に外出を主張した。1度王妃になった女性は、どんな事情があろうとも、王宮の外に出ないことがしきたりであったのだが……。
文定王后が「外出」にこだわったのは、宮中を混乱させることと、仁宗の病状を外部にもらすことが目的だったと思われる。実際、文定王后が仁宗の命を狙っていたことは、なかば公然の秘密でもあった。
結局、仁宗は1545年7月1日に30歳で亡くなった。在位は、歴代王の中で1番短い8カ月半だった。
彼の後を継いだのは文定王后の息子で、13代王・明宗として即位した。すると、文定王后は早くも冷酷な一面を見せた。
「1年も王位にいなかったのだから、今までの慣例を踏襲する必要がない」
こうした理由を押し通して、文定王后は仁宗の葬儀をおそろしいくらいに冷遇した。その結果、服喪期間は短縮され、陵墓も格下げとなってしまった。その扱いはあまりに理不尽だった。
王の母となった文定王后は、権勢をほしいままにして、一族で政権を独占した。政治は腐敗し、賄賂が横行した。悪政の最たるものであった。
「先王(仁宗)が生きていれば……」
人々は名君になる素質が十分だった仁宗の死を悼んだ。
朝鮮王朝27人の王の中には、毒殺されたと噂される人が何人もいるが、仁宗の場合は1番可能性が高いと言われている。
それだけ、文定王后の殺意は明白だったのである。
康煕奉(作家)
(2013.3.20 民団新聞)