「民団の心」見た…救援へ血吐く思い 震災9日間レポート
民団生活局主任 白秀男
福島県いわき市常磐湯本町で大震災に遭遇した民団生活局の白秀男主任。これは、中央対策本部の先発隊となり、帰任するまでの9日間の手記。
◆民団福島本部へ
【11日(金)】私用をほぼ処理してホテルの部屋(5階)に戻った。映画「フラガール」の舞台になった当地は、同胞が強制労働させられた炭鉱があった。私は昨年からこの地域の無縁故遺骨を祖国の「国立望郷の丘」に安葬する手続きを担当している。
炭鉱記念館へ出かけようかという時、グラ〜ッときた。瞬間、「大きい!」とは思った。が、それにしても治まらない。窓ガラスが軋む。ホテルはエレベータと水道が止まった。もちろんお湯は出ず、暖房も切れた。
40分後、外に出た。商店は什器や商品が飛び散っている。電柱が傾き、瓦や塀が崩れ、町並みが歪んだ。コンビニの食料は既に売り切れ。電車が止まり、閉鎖された湯本駅前には、出張中であろうビジネスマンたちが携帯電話を手に不安げにたむろしていた。
自販機で缶ジュースとアイスクリームを買った。そのまま連泊する。外は寒い。生活局メンバーにメールを打ち、状況を知らせておく。
【12日(土)】余震のなかホテルで一日過ごす。食料がない。時々駅前に情報収集を兼ね自販機のアイスクリームを買いに行く。ホテルの各部屋はドアを開けっ放しで、帰宅難民らが布団にくるまったまま原発事故のニュースに見入っている。
身の振り方を決めかねていた。そこに、中央対策本部から郡山の福島本部に入れとの指示。バスで湯本駅前から福島空港を経て郡山に行けるとの情報に賭ける。
◆安否情報携帯で
【13日(日)】朝6時50分発の福島空港行のバスに乗れた。空港カウンターはすでに長蛇の列。空港で買ったおにぎりが久しぶりのごちそうだ。
郡山駅前の時計は、地震時間で止まっていた。母国修学生の同期でもある福島本部の銭相文事務局長の顔を見てほっとする。禹日生団長は見るからに太っ腹。話をするだけで、心が落ち着く。
ようやく事務所内の片付けが終わった。電話、ファクス、インターネットが不通という。福島本部の敷地周辺はかなり沈下し、1階のあすか信組郡山支店のエントランスはガラスが割れ、床が波打っていた。
通信手段は唯一、私のF社携帯だけ。局長は私の携帯を使って団員の安否確認を始めた。つながった団員らは、「福島民団:」と言った途端「ありがとう。ありがとう」と涙声。我々も嗚咽しそうになる。ガソリンがなく、助けに行けない。つながった電話を切るのが忍びない。
皆が疲れ、不安に耐えている。さすが気丈な一世、90歳近い夫婦も「2人で頑張る」と。
◆無事確認し笑顔
【14日(月)】原発事故の情報はブレ気味だ。連絡が取れない団員さんは無事か、無意識のうちに苛立っている。中央対策本部の24時間バックアップ体制はありがたい。一部地域の団員さんの安否確認を依頼した。
午後、福島本部の水道や電話回線が復旧し、団員からも連絡が入り始めた。近隣同胞の安否を確認する。「無事」。その度に笑顔が広がる。大分本部から激励のファクスとメールが届く。感激。
原発状況は一段と悪化。「原発関係者が東京に帰り始めた」など、不安を煽るメールも。気にならないわけがない。昨年11月、北韓による延坪島砲撃の時もソウルにいた。
本部スタッフ3人はガソリンがなく帰宅難民だ。近くの李在昌組織部長の家に泊まる。2号機の炉心が完全露出したとの報道。急いで地域の同胞に電話をする。励ますことしかできない。
最後に事務局長が自宅に電話した。「オモニ、もう十分長生きしたよね」「ああ。おまえは皆のためにがんばれ」。
◆迫る原発の恐怖
【15日(火)】朝6時前、本部の周りを散策した。梅の花が咲いていた。やたら目がチカチカする。今年から私も花粉症だったことを思い出した。
宮城本部で先発隊と合流せよとの指示。福島の皆と別れるのが辛い。「また会おう」。再会を約した。駅に向かう途中、涙が溢れた。花粉症がこれほどキツイとは。
郡山から福島まで高速バス、福島からタクシーで仙台に行ける。いや、タクシーもガス供給制限で厳しい。情報は錯綜する。とりあえず、福島行の高速バスに飛び乗った。補助席まで満席だ。
仙台に帰る男性と話が合い、経費節約のためペアを組む。彼は出張先の宇都宮から自宅に帰るところ。折りたたみ自転車を調達し、今朝2時に宇都宮を出発した。
途中から雨が降り始めた。福島駅のタクシーに仙台行を頼んでまわった。燃料不足で断られる。「万一の時、家の近くにいたい」と言う運ちゃんも。あたりまえだ。原発の恐怖は日増しである。
ようやく1台を確保。道中の信号機は皆消えていた。携帯もつながりにくい。無事に仙台入り。相方が挨拶ももどかしく自転車にまたがった。
宮城本部に着くともう日が暮れ始めていた。安否確認に皆が必死の顔。韓在銀副団長、生活局の陳信之副局長の姿が見える。とりあえず経過を報告し、温かいコーヒーをいただく。気がつくと、体が小刻みに震えていた。恥ずかしいが止まらない。
◆必死の燃料確保
【16日(水)】宮城本部で情報整理を手伝う。激甚地区は相変わらず電話が通じない。宮城県も予想以上の被害だ。福島と同様、ガソリンがなく、救援に駆けつけられない。連絡が取れない地域の同胞の安否確認こそ最優先なのに、悔しさと焦りだけが募る。
民団宮城が前進本部になるとのこと。救援物資の受入体制を整える。
【17日(木)】朝から雨と雪。今日を踏ん張れば中央から物資が届く。掻き集めたガソリンを頼りに、連絡がとれない地域へ向け、物資を積んだ車2台が出発。激甚地区へはこれが4日連続だという。
宮城本部の李純午副団長と中央本部の韓副団長が1号車で塩釜市、七ヶ浜町、多賀城市を目指す。宮城本部の金東映副団長と陳副局長が2号車で気仙沼市、女川町、石巻市、東松島市へ。
残ったメンバーは団員の安否確認に集中だ。壁に貼られた団員名簿に無事のマークを入れる宮城団長の顔がほころぶ。深夜2時、山形から福島本部に救援物資を運んで行った中央本部の林三鎬副団長と支援要員1人が仙台入りした。この大雪の中、凄い人たちだ。
◆いざ激甚地区へ
【18日(金)】昨晩遅く、山形を出発した中央対策本部の救援物資が救援本隊1陣とともに、宮城本部に到着。車に物資を積み込み2班が出発した。私も李純午副団長と多賀城市、名取市へ。ひどい。テレビで見た光景が延々と続く。これでもだいぶ街が整理されたという。
家屋が全て流された地域では地元の人も道に迷う。車は団員宅近くまで行けても、その先には進めない。歩いて訪ねるが家は泥だらけ。無事だろうか。近所の方に安否を尋ねる。その方も道に流れる水を集め、床上の泥を掃き出していた。
たとえ、津波の被害が無かった団員宅でも水・食料がない。わずかだが、水と食料を渡す。涙ぐむ団員さん。本部への帰路、李副団長の携帯が鳴った。同級生から奥さんと娘が亡くなったとの知らせ。李副団長が涙声で励ます。
【19日(土)】本隊1陣と交代し、私は東京に向かった。山形県鶴岡、酒田まではバス。そこから新潟までは列車だ。バスはやはり補助席までいっぱいで、ヒステリックに何度も運転手に降り場を確認する女性の声が響く。
新潟駅近くで、「この人すごい顔で寝てるよ」の声で眼が覚めた。駅周辺のコンビニには、手に入れるのに散々苦労した携帯電話の簡易(電池)充電器が売っている。新幹線乗り場では駅弁もある。横に座った女性がハンバーガーをおいしそうに食べ始めた。
◆「距離」を思う
この大震災は「距離」がキーだと思う。まずは、海からの「距離」、原発からの「距離」である。そして被災地と自分がいる場所の「距離」。
今まで苦労して築き上げた財産を全て失った方々。原発近くで眠れぬ夜を過ごす方々。自分の被害も大きいのに、生業を投げ打って団員の安否確認と物資救援に当たる皆さん。誰も決して、孤独ではありません。場所は離れていても、心は一緒です。
(2011.3.25 民団新聞)
【写真】地盤沈下で一時閉鎖したあすか信組郡山支店