掲載日 : [2019-08-07] 照会数 : 11123
時のかがみ「消えたコールサイン」津川泉(脚本家)
[ 京城中央放送局の局舎全景(『韓国放送史』=韓国放送公社編1977) ]
朝鮮放送協会最期の日々
山崎金三郎の甘苦い記憶
何もかもあつけらかんと西日中久保田万太郎
「終戦」と前書されたこの句には、戦争のくびきからの解放感と激しい陽射しにさらされた喪失感が交錯している。
1945年8月15日ーー。京城(現・ソウル)徳寿宮の背後、貞洞の小高い丘の上にそびえる鉄塔の下にベージュ色の2階建てのモダンなJODK(朝鮮放送協会・京城中央放送局)の局舎があった。
正午、全職員が会議室に集められ、終戦の詔勅に耳を傾けた。編成課長・山崎金三郎は、その後に起こった放送局内外の動きを次のように追想している。
8月下旬、グラマン数十機が上空に飛来し「日本人は職場にとどまれ」というビラを散布。9月7日、米軍が放送局を正式接収。日本人職員は名目上の「顧問」となり、10月2日付で一斉解雇。コールサインJODKは消えた。
その時、山崎は朝鮮語のニュース解説などを担当していた女流詩人毛允淑からこんな言葉をかけられた。
「今までは職制上(中略)内地人の優位が確保されてきましたが、終戦を機にそれは逆転の形になりました。山崎さん、これからはお互いに平等な〝人〟としておつき合いしましょう」(「断片雑筆」『JODKーー朝鮮放送協会回想記』。
この物おじしない堂々たる口吻(こうふん)と姿勢はどこで培われたのだろう。
彼女は梨花女子大を卒業後、真の意味の「韓国の新劇」を樹立しようと尹白南、洪海星、柳致真らが創った「劇芸術研究会」に参加。同窓の詩人盧天命と共に女優として活躍している。その経験が物を言ったのであろう。
山崎は毛允淑のその後の消息を気にかけていたが、彼女は戦後、国連総会韓国代表、韓国ペンクラブ会長、ユネスコ総会韓国代表、国会議員などを歴任。90年に亡くなっている。
山崎の戦後は、1946年に通告された朝鮮放送協会旧職員に対する退職金返還問題から始まった。彼は、東京の占領軍司令部のマッカーサー元師あてに「退職金返還請求処置は実に武器を用いざる残虐行為である。すみやかに撤回措置を指示されたい」という嘆願書を郵送した。幸いこの措置は撤回されたものの、山崎の元へ配達される郵便物はことごとく検閲されたという。
放送からは遠ざかった彼は、地方都市を転々として、83年に死去。毛允淑との再会はかなわなかった。
そんな山崎にはもう一つ探偵小説家・山崎黎門人という顔があった。1928~30年代にかけて当時の総合誌『朝鮮公論』に数々の作品を寄稿している。
「女スパイの死」(『京城日本語探偵作品集』学古房・2014年刊所収)などにモダンな黎門人の名が見える。恐らくレイモンド・チャンドラーにあやかったのであろう。
外地で迎えた終戦の日の光景は、山崎にとってサウダージ(今はなきものに対する甘苦い懐旧の念=ポルトガル語)な落日そのものだったかもしれない。
(2019.08.07 民団新聞)