朝鮮王朝の正式な歴史書となっている「朝鮮王朝実録」は、世界に類がないほど一つの王朝の歴史を克明に記録している。
この偉大な書物がどのように書かれたかというと、王が亡くなったあとで特別な編集委員会が設けられて、王に関する日記や公式会議の記録を基に、何年もかかって作成されたのである。
基本方針として内容の客観性を心掛けたそうだが、実際には意図的な記述も目立つ。特に、クーデターで王位を奪った場合、追い出した王の非行をことさら強調する傾向があった。それは、勝者がクーデターを正当化するためであった。
その記述を鵜呑みにすると、王宮を追われた10代王・燕山君と15代王・光海君は暴君そのものだ。
しかし、近年の歴史研究では、光海君に政治的な業績が多いことが明らかになってきて、彼の評価もかなり変わってきた。
その一方で、燕山君は相変わらず暴君の代名詞になっている。彼も「朝鮮王朝実録」で実にひどい書かれ方をしているが、今のところ擁護論はない。時代劇でも悪の象徴のように描かれている。
燕山君の場合、本人の性格にも大いに問題があったが、さらに言うと、取り巻きがひどかった。出世に目がくらんだ奸臣が集まってきて、国の政治を腐敗させた。
それに加えて、側室だった張緑水が救いようがないほどの悪評まみれだった。朝鮮王朝時代の悪女としては張禧嬪がとても有名だが、悪行を繰り返したということでは張緑水のほうがずっと罪が重いだろう。
もともと張緑水は最下層の身分だったが、息子を生みながら夫を捨てて逃げ出し、妓生になった。
彼女は歌謡に秀でていたようで、くちびるを動かさずに美声を披露したという。30歳を過ぎても10代に間違えられるほどの美貌を誇り、やがて燕山君の側室になった。
ここから、張緑水の思うつぼになった。
燕山君と一緒に酒宴に明け暮れた彼女は、王朝の倉庫から財宝を持ち出して私腹をこやした。
王と側室による浪費が止まらず、王朝は破産状態になったが、燕山君は反省もせず民衆に重税を課した。この悪政によって、民衆の憎悪は燕山君と張緑水に向かった。2人を批判する落書きが都を賑わすと、なんと燕山君はハングルの使用を禁止した。完全に常軌を逸している。
そんな悪行は長く続かない。
1506年に燕山君はクーデターで王宮を追われた。流罪先で彼が絶命したのは2カ月後だった。
一方の張緑水はどうなったのか。
彼女は斬首となり、遺体は放置された。よほど怨みを買っていたようで、多くの人が遺体に唾をはいたり石を投げたりしたという。たちまち石塚ができてしまうほどに……。
張緑水の場合は、歴史の中で悪評がさらに強調されていった。それは、後世の戒めにするためでもあった。
一時の欲望を満たすために、張緑水が払った代償はあまりに大きかった。
康煕奉(作家)
(2013.6.12 民団新聞)