満州事変に翻弄され生まれは吉林 英子の父は慶尚北道安東の人ながら、1928年に3男3女の6児を連れて満州に移住し、吉林の盤石県で農民として暮らしを立てていた。だが、満州事変勃発の翌32年9月、朝鮮人農民を日本の手先と誤認、敵視する馬賊団に襲われて農場は焼き払われ、男児2人が殺され女児2人がさらわれた。いちどに4児を失う悲痛がいかに深くとも、亡国の民を守ってくれるものはなかった。
都会なら生きる術を見いだせるのではないかと、一家は奉天(現在の瀋陽)に移ったが、満州の寒さに凍傷にかかった父はさらに破傷風にやられ、37年初頭に世を去る。その年の6月に生まれたのが英子だ。
母は3人の子どもを連れて、北京に引っ越した。その北京で43年、母に連れられて観た崔承喜の公演が英子の運命を決定づける。ピカソや川端康成が称賛した東洋の舞姫に、幼いながらも魅了され、舞踊手になりたいと憧れを抱いたのだ。
北の烈士遺家族に兄の戦死 同年、12歳年上の兄が日本軍に徴兵される。しばらくして警察署が母を召喚した。「息子をどこに隠したのか白状しろ」。逃亡し行方が知れないという。6歳の英子は警官にぶたれる母を見て、声を上げて泣いた。
兄はその後、中国共産党の八路軍に合流し、朝鮮義勇隊の一員として戦った。光復後、金日成らと前後して以北(現・北韓地域)に入った兄を頼り、一家は故郷の南ではなく北で暮らすことになる。
人民軍第3師団参謀だった兄は6・25韓国戦争で戦死した。そして、25歳の命と引き換えに「革命烈士遺家族」という《土台》を家族に残してくれた。休戦後、一家は厚遇され、折々に金日成からの贈り物を授かる身分だった。
成惠琳(金正男生母)と交友芸術学校入学 53年11月、舞踊を志した英子は設立間もない国立の平壌綜合芸術学校(後の平壌音楽舞踊大学)の1期生に応募し、20倍の競争を突破して入学を果たす。そこで朝鮮舞踊を指導したのが崔承喜だ。同期の成惠琳とは友人として親しく過ごした。
成惠琳は言うまでもなく、金正日の長男・正男の生母である。正男は現在の最高指導者・正恩の兄だ。惠琳は60年代末から正日と同居し、71年に正男を出産した。その数年後、正日に遠ざけられ、心臓病とうつ病に苦しみ、モスクワで死亡した。一時、亡命説が流れたこともある。後に、惠琳との友情が英子の境遇を暗雲でおおう。
英子は56年に芸術学校を卒業、朝鮮人民軍協奏団に舞踊部専門俳優として入隊し、国家や金日成が催す宴会にも多数参加する。
粛清の嵐 57年以降、相次ぐ粛清で友人・知人たちがその家族ともども次々と消えていく。母は「息子が生きていたらやられたに違いない。私たちもどこかに送られただろう。戦死したのはましだったのだ」とまで思いつめるほどだった。
粛清の嵐は芸術家たちをも襲う。師匠であった崔承喜が公開の思想闘争にかけられたのは67年、平壌市西門洞の会館であった。英子もここに動員され一部始終を目撃した。壇上に陣取る党中央委宣伝扇動部長金昌満の追及が続く。
「なぜあなたの作品には多数の坊主が登場するのか」「風呂に牛乳を使うそうだな」「資本主義に浸った修正主義者ではないのか」
これ以降、英子は崔承喜の指導を受けられず、その作品も上演されることはなかった。弟子たちも相次いで消えていった。69年には崔承喜が北倉の収容所で銃殺されたと聞いた。2003年に北韓が公開した愛国烈士陵の崔承喜碑には没1969年8月8日とある。
68年に人民軍協奏団を除隊した後、『外国旅行者商店』商業部指導員として働いた。この外国旅行者商店とは、海外に行く政府代表団、大使、金日成の親族など高位層に特別に提供される物資を扱う。一般人民は立ち寄ることすらできない。
両親と長男を失う収容所に8年 高位層の私生活を知り得る職場であることから、勤務者は思想が堅固でバックグラウンドが良好な者でなければならない。戦死した兄のおかげでここに勤務できた英子は、体制がうたう平等、公平分配が真っ赤な嘘であることをまざまざと見せつけられた。
やはり、英子とその家族も無事ではいられなかった。70年7月4日、中国朝鮮族出身だった夫が自宅で「一緒に中国に行かないか」と漏らしたその日以降、行方不明になった。
それからひと月もたたない8月1日、今度は英子本人が保衛部312号予審課の普通江アジトに2カ月間閉じ込められ、生まれてからこの方の思いつく限りの一切をひたすら書き綴らされた。「党に忠誠を尽くし続けた自分がなぜこんな目に遭うのか」。理由は一切知らされない。
10月初旬アジトから連れ出された英子はいったん自宅に護送され、本人と齢70を過ぎた母、継父、9歳、7歳、5歳、1歳の3男1女、計7人の家族ごと耀徳収容所に送られた。8年の収監中に両親を餓死で、長男を事故で失う。
79年1月に「ここで見聞きしたこと一切を口外しない」という誓約書に10本指の判を押し、生き残った長女、次男、三男とともに出所した。英子は英順に改名させられていた。
70年から79年までに耀徳収容所から釈放されたのは、25世帯に過ぎないと記憶している。咸鏡南道長津郡の中興鉱山に廃屋をあてがわれ、親子で過酷な鉱山労働に投入された。冬には零下30度にもなる高山地帯である。
夫密告は、あの辛光洙一家離散 その後、賄賂を使ってツテのある安全員(警察官)に書類をいじってもらい、再婚したと偽装し、本人は咸興に移った。そこで、在日同胞出身者から3カ月ほど裁縫を学び、洋服店に勤めるようになった。娘は養子に出し、2人の息子は引き続き鉱山で働いた。 Best
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息子たちに軍服務の令状が来ない。地域の軍事動員部に問うと「夫がスパイ罪で20年の刑を受けている。政治犯の家族は銃を握ってはならない」という。後日、夫は職場「朝鮮百科事典出版社」の同僚であった辛光洙の密告で収容所に送られたと知る。
辛光洙は多数の日本人拉致にかかわった北韓工作員として、日本当局が国際指名手配している人物だ。
29年静岡生まれで光復後すぐ北に入り、韓国戦争にも参戦している。73年から日本を拠点に活動していたが、85年にソウルで韓国当局に逮捕され、死刑判決を受けた。その後、無期懲役に減刑、99年に金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放、00年には「非転向長期囚」として北韓に送還された。北韓では一時、「英雄」として称えられたこともある。
またも連行 英順は89年の末、咸鏡道保衛部に召喚される。ベンツに乗せられ道保衛部庁舎に向かうさなか、恐怖で体の震えが止まらなかった。今度は何をされるのか。事務室で向き合ったのは平壌から来た反探局長であった。
「すでに収容所を経た私をなぜまた連行するのですか」
「いくつか確認すべきことがあります。成惠琳は金正日同志の妻ではなくその息子も産んではいない。全くの流言飛語だ。これを口外したなら容赦しませんよ」
自分と家族がなぜ収容所に送られたのか、その理由がこのとき初めて分かった。
時間をさかのぼる。69年の秋、平壌児童百貨店の真向かいにある高級軍官アパートに住む英子のもとを軍服姿の成惠琳が立ち寄った。帰り際「私、5号宅に入るの」と漏らした。金正日の官邸に入ることを意味する。
驚いた英子は「それでは私たちが会うのもこれが最後ね」と返した。このやり取りを口外したことは一度もなかった。ただ成惠琳と親しく、事実を知ったことが仇となり、一家は収容所送りとなったのだ。
保衛部の圧迫・監視は続いた。不幸は重なる。脱北を試みた三男が88年に銃殺されていたことを知る。
舞踊継承に捧げる脱北 もはや恨みのみ多いこの国には留まるまい。脱北の機会をうかがうが果たせず、凍る豆満江を渡ったのは01年2月のことだ。吉林で2年半暮らし、韓国入りを果たしたのは03年11月であった。
いかに数奇な人生も英順を挫けさせることはなく、韓国にたどり着いた安堵も英順を脱力させることはなかった。余生は収容所に囚われた罪なき人々の解放と、独裁の犠牲となって果てた崔承喜の舞踊の継承に捧げたいと、78歳にして後進の指導に当たっている。
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宋允復(北朝鮮人権NGOノーフェンス副代表) 本紙11月25日付に「崔承喜の舞 伝えたい‐平壌で指導受けた金英順さん」と題した寄稿が掲載された。英順さんは耀徳(ヨドク)収容所を生き延び、脱北し得た数少ない生き証人でもある。読者から「彼女の人となりや数奇な人生について詳しく知りたい」との要望が相次いだ。本紙の求めに応じ、寄稿者の宋允復氏が詳報を寄せた。
(注)前回の寄稿で、「英順」の名は収容所にいた73年に「日本式の名前を捨て朝鮮式に変えよ」との金日成の指示で付けられた「記号」だと紹介した。親から授かった名は「英子」だ。本稿では時代によって「英子」と「英順」を使い分ける。