逆境克服しつかんだ栄光
日本と韓国で活躍した在日同胞スポーツ選手は数知れない。しかし、彼らの栄光は双方の差別の中で悪戦苦闘の末に手にしたものだった。韓日スポーツ交流史に詳しい大島裕史氏(スポーツルポライター)に「在日スポーツ列伝」をテーマに寄稿してもらった。(文中敬称略)
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韓日狭間の葛藤バネに…ダブルパワー発揮
第63回夏の甲子園に在日旋風! 決勝戦のスコアボードには、京都商業の鄭、韓、報徳学園の高原、金村、西原、岡部ら同胞の名前が並び、全国の同胞を沸かせた
同胞沸かせた81年の甲子園
1981年の夏の甲子園大会で、韓裕、鄭昭相という本名で出場した選手を擁する京都商業(現、京都学園)を破り全国制覇を果たした報徳学園の金村義明は、自身の出自を堂々と明かしている。金村はあの全国制覇を契機に、「在日の方々と、日本の人に応援してもらって、ダブルのパワーをもらっている、と考えられるようになりました」と、語る。
もっとも、彼らがその心境に至るには、いくつもの葛藤や紆余曲折があったし、多くの在日選手は、日本と韓国の双方から差別を受けているという現実がある。
五輪の柔道でメダルトリオ
モントリオール五輪の柔道で銅メダルを獲得した朴英哲=76年 |
納得できない朴は、そのまま試合会場の畳の上に座り込んだ。在日本大韓柔道会の李道述会長も猛抗議し、選考試合はやり直しとなり、朴が代表の座を勝ち取った。選考試合の後、朴は李道述から、「畳から降りていたら、負けやったぞ」と言われた。まさに、執念で掴んだ代表の座であった。朴はモントリオール五輪で銅メダルを獲得している。
ミュンヘン五輪(72年)で韓国選手団唯一のメダルとなる銀メダルを獲得した天理大学出身の呉勝立は、決勝戦10分のうち、9分40秒くらいまで、日本の関根忍を圧倒していた。しかし、残りわずかのところで、やや体勢を崩され、微妙な判定の末敗れた。もし勝っていれば、解放後、初の金メダルになるところだったが、それでも呉は、やるだけやった、という思いがあった。
ところが選手団の中には、「お前、日本に住んでいるから、日本に負けてやったのか」と言う者もいた。それには呉も怒りを抑えきれず、「試合をする人間の気持ちを考えたら、そういう言葉が出てきますか。私は自分なりに精一杯やったし、国のためにも、一生懸命頑張ったつもりです。誰も負けたくて、負ける人間はおりません」と、反論した。
60年代、70年代は、まだ韓国が貧しかった時代。といって、在日の多くも苦しかった。東京五輪(64年)で韓国柔道初のメダリストとなる銅メダルを獲得した金義泰は、天理大学を卒業した後、五輪までの半年間、孤独な稽古を続けなければならなかった。その間の生活費として、父親が「もうちょっとやりたいけど、幼い子がおるからこれしかない」と言って、10万円を渡した。「当時の10万言ったら、すごいカネなんですよ。涙が出てきた」と、金は振り返る。
在日が五輪で韓国代表としてメダルを獲得したのは、この3人である。そこには、三人三様の苦難の歴史がある。
また祖国の分断は、在日のスポーツマンも苦しめた。東京・荏原高校野球部出身の寿讃は、韓国の実業団でプレーし、国家代表の名外野手として活躍したが、本人は韓国にいるにもかかわらず、両親は北に行ってしまった。そのため、公安当局にマークされ、辛い思いをしたこともあった。
■□ ゴルフ強国韓国の基盤を築いた金本勇(金基燮)
プロの選手が続々登場
日本のスポーツ界には多くの在日選手が活躍している。
プロ野球では、史上初の完全試合を達成した藤本英雄、400勝の金田正一、3085安打の張本勲、現役では阪神の桧山進次郎、新井貴浩、横浜の金城龍彦など。プロレスでは力道山を筆頭に、長州力、前田日明、それに総合格闘家の秋山成勲らがいる。それに、日本名だから分からないだけで、実際には、かなりの在日選手がいるのは間違いない。
ゴルフ強国の基盤を築いた
その一方で、韓国のスポーツの発展に寄与した選手も多い。
韓国のゴルフは誰もが認める世界最強であるが、その基盤となっているのが、有望選手を国が管理・育成する常備軍制度である。その常備軍が本格的に稼働したのは、86年のソウル・アジア大会に向けてであった。
自ら選手として、韓国の若い選手を指導したのは、日本アマチュア王者の金本勇(金基燮)である。すぐに「ケンチャナヨ」と言ってズルをする若い選手に、「国の代表として行くのだから、それは、絶対にダメだ」と、マナーの大切さから、叩きこんだ。
アジア大会本番で金本は、最後の最後に痛恨のミスをして、個人戦の優勝を逃したが、団体戦は韓国が、金本の活躍で優勝した。「ゴルフは上流階級でやることで、韓国には向かないと、広告が集めにくかったが、金メダルの獲得で、企業に説明しやすくなった」と、大韓ゴルフ協会の事務局長を長年務めた林栄善は語る。
この団体戦の優勝が、その後の躍進の起爆剤になった。
国籍の問題で揺れた金哲彦 ロッテの張本(張勲)は日本プロ野球史上初めて達成した3000本安打を豪快なホームランで飾った=80年
ベルリン五輪(36年)マラソンの金メダリストである孫基禎と、瀬古利彦らを育てた早稲田大学監督の中村清は、親交が深かったが、この2人が夢を託したのが、箱根駅伝で「山登りの木下」として知られた、金哲彦であった。中村が金を韓国代表のマラソン選手にするために、朝鮮籍から韓国籍に変えるように勧めたが、金は拒否すると、破門にされた。
ちょうど、ロス五輪(84年)の前である。金の実力なら、十分に代表になれた。けれども当時はまだ、大学2年生。「親に背いて、大きな決断をすることはできませんでした。自分自身の自我が確立していなかったから、決断できませんでした」と、金は振り返る。
金哲彦が韓国籍に変えたのは、バルセロナ五輪(92年)を控えた時期であった。この頃になると、金メダリストとなる黄永祚が出現するなど、韓国が急速にレベルアップし、金は代表になれなかった。それでも、韓国代表になるため行ったアメリカ・ボルダーでの高地トレーニングは、金がマラソン指導者のカリスマとなるきっかけになった。
史上初の完全試合を達成した藤本英雄投手 |
在日の役割は、選手としてばかりではない。1966年にアメリカで開催されたレスリングの世界選手権で、フリースタイル・フライ級の張昌宣が優勝した。当時の韓国の経済力では、世界選手権に選手を派遣する状況ではなかったが、張が64年の東京五輪で銀メダルを獲得したことから、派遣が許された。
張昌宣の銀メダルの原動力になったのは、63年の秋、3カ月間東京で行った長期合宿であった。韓国では無敵の張も、特別参加したフライ級・日本代表のセレクションを兼ねた強化合宿では、最初21人中19位だった。それでも3カ月後には、順位を4位まで押し上げ、それが銀メダルにつながった。
東京の旅館を長期借り切り
この長期合宿は、在日本大韓体育会の范填圭が文京区の旅館を長期間借り切るなど、在日の全面的なバックアップがあったから可能であった。張昌宣は、「あの時の練習がなければ、今日の私はないでしょう。在日同胞が、とても助けてくれました」と、感謝している。
66年の世界選手権の張昌宣の優勝は、全種目を通じて、解放後初の世界制覇である。この優勝に刺激された梁正模が、10年後のモントリオール五輪で、解放後初の金メダルを獲得し、韓国はスポーツ強国に成長していく。
韓国がスポーツ強国に成長していく過程で、用具の調達など、主にソフトの面で貢献した蔡洙仁、多大な資金援助をした鄭建永をはじめとする、在日本大韓体育会が果たした役割は大きい。
在日体育会は来年創立60年を迎える。その記念事業の一環として私は、来年初めに単行本化すべく、在日のスポーツ人の軌跡を取材、執筆している。
創立60年記念在日列伝刊行 プロレスラーの長州力
在日のスポーツ人の軌跡を追うことは、日韓のスポーツ史の隙間を埋め、つなぐことである。例えば、日本最強であったニチボー平野の中心選手として、68、69年の女子バスケットボール年間ベスト5に輝いた趙栄順(岩本栄子)は、家族の反対もあって、日本への帰化を拒否し、韓国に渡り、72年から74年まで韓国代表の主将を務めた。しかし、日本バスケットボール史の岩本栄子と、韓国バスケットボール史の趙栄順は、同一人物であるにもかかわらず、別の人間のように存在している。在日の場合、そのようなケースが少なくない。
そうした日韓のスポーツ史をつないでいく作業の中で、在日の生きざまや魂も見えてくる。それはまた、日韓のスポーツ史の再発見でもある。日韓のスポーツ史を長年取材している私にも、今回の取材は、新たな発見の連続であった。来年の書籍の刊行を、どうか期待してほしい。
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プロフィール おおしま・ひろし
1961年東京生まれ。明治大学政経学部卒業。出版社勤務を経て、ソウルの延世大学に語学留学(93〜94年)後、文筆業に。『日韓キックオフ伝説』で96年度ミズノスポーツライター賞受賞。主な著書は、『2002年韓国への旅』『誰かについしゃべりたくなる日韓なるほど雑学の本』『韓国野球の源流』など。
(2011.8.15 民団新聞)